蜃也のアパートは歩いて五分とかからない場所にあった。まだ建てられて新しいのか、生活臭のないアパートで、どちらかと言えば帝都に滞在する外国人の為の住居であるらしかった。
当然造りは西洋風で、エントランスを抜けて階段を上がる。蜃也は急な階段を登ってすぐ右の部屋の扉を開けた。
明かりを灯し、書き物机の前の椅子に文を腰掛けさせた。菊を抱えたまま所在なげに立っている天薨に向かって蜃也は言う。
「彼女はベッドに。シーツは今日替えたばかりだから清潔なはずだよ」
言われるがままに天薨は菊をベッドに横たえると、蜃也が水で絞った布を菊の首筋、赤く腫れた箇所に当てた。
それを押さえているように、と天薨に頼んで次は文の手当に入る。
患部の渇きかけた血を拭い、消毒液を塗り、その上にガーゼを被せて包帯で巻く。
文はその鮮やかな手つきを見るともなしに見ながら、医者という言葉は嘘ではないらしい、とぼんやりと思った。
「はい、終了。二、三日はガーゼを替えるように」
蜃也は言うと、にこりと笑う。彼の笑顔は何となく人を安心させる。これは、医者という職業柄なのだろうか、はたまた元からだろうか。どうでも良いことを思いながら、文は頭を下げる。
「有り難う御座います」
「どういたしまして。……というか、礼を言いたかったのは僕の方なんだけれど」
苦笑気味に返す蜃也に、文と天薨は顔を見合わせた。
「あの夜、実は母親が危篤でね」
さらりと言う蜃也に、文は戸惑ったように身じろぎをした。
「それは……」
目を伏せがちに呟く少女に笑いかけて蜃也は続ける。
「あの時君が居なかったら、母親は看取れ無かっただろうし、僕の方が死んでいたかもしれないと思うと感謝してもしたり無いくらいだ。──本当に、ありがとうございます」
と真剣に、しかも自分より年上で身分もしっかりしている男に謝られて、文は恐縮する他無い。どうしたらいいのか分からず複雑な顔で頭を下げる青年を見つめる。
「よしてください。私、別にそんなつもりでは……」
「うん。僕の都合だね」
言い訳をするように言う文に、蜃也はあっさりと頷く。
「それでも、僕は君に感謝したかったんだ。──それに、どうやら僕は定めを掴んだそうだから」
蜃也の吐いた台詞に、ぴくりと文が反応する。天薨と目を合わせて、再び蜃也を見る。
「それは……どういう意味ですか?」
「実は僕にもよく分からない」
ただ、母の遺した言葉なんだ、と蜃也は言った。
慌ただしく家に駆け込んで、母親の枕元に座ると、母は安堵したように笑って、蜃也に向かって言った。
『良かった、お前も定めを掴んだんだね……』
『何?』
言葉の意味は分かるが、真意がわからず、蜃也は思わず問い返した。
『一度手にした定めは……手放そうとしても無理なものさ……だから、しっかりと掴んでおおき』
『母さん?』
隣に座っていた姉も、不思議そうな顔で問うが、母親は訥々と言葉を紡ぐ。
『あたしは最期まで……掴んだ定め通りに生きた……お前たちが、その証かもしれないね……』
そう言って目を閉じたきり、開くことは無かった。
簡単に母親の告げた言葉を説明すると、息を吐いた。
「正直、どういう意味かよく分からなかったけれど──今日、また君に会えた事がその『定め』かなっていう気がしてね。
今日、ふと君の事を思いだして会おうと思った。一度会ったことは偶然かもしれないけれど、二度目ともなると必然性を感じないかな?」
文は分からない、と言う風に小さく首を振った。
蜃也もそれを見て、まぁ仕方ないか、と肩をすくめて苦笑した。
「突然、変なことを言って悪かったね。
──でも、まだこの様なことを続ける気なら頼ってくれても構わないよ。僕はね」
何の気負いもなくさらりと言われた言葉に、一瞬間が空く。
「もう、ご迷惑お掛けするつもりはありませんから」
「僕は別に迷惑とは思わないよ」
「……何を考えてるんですか」
呆れたように文が呻く。しかし、当の蜃也はけろりとした顔である。
「別に。君の力になれたら良いと思うだけだよ。借りを返したい、と言うことだね」
というと、また笑顔をこぼした。
「……貸したつもりは、ありません。手当をして頂いた事で帳消しになるでしょう」
文は素っ気なくそう言うと、失礼します、と立ち上がった。天薨を促して部屋を出る。
蜃也は黙って肩をすくめてから、気をつけて、と声を掛けて少女の小さな背を見送った。
アパートを出た文と天薨は、肩を並べて家路につく。暫く無言が続いた後、ぽつりと文が声を漏らす。
「……どう思う?」
「なぁに? あの先生の事?」
菊を抱え直しながら、天薨は問い返す。硬い表情で頷く文を見やって、天薨は婉然と微笑んだ。
「いい男よね。あたくしは好み」
「……そんな話はしてない」
大体、今は女の姿をしているが、本当の姿は何なのか分からない、とにかく『人ではない者』である天薨が、そんな俗っぽい話題を持ち出すこと自体が可笑しい。
女の姿になった天薨は、時々こうして話をはぐらかしたり文をからかったりして遊んだりする。自然、呆れ口調になった少女の肩をぽんっと叩く。
「冗談よ。彼、本気で文に協力しても良いと思ってたようよ。信用しても良いんじゃなくて?」
「……私は……もう、二度と誰かを巻き込みたくない……」
きゅっと唇を引き結ぶ文の頭をぽんぽんっと優しく叩く。天薨を見上げると、彼女(?)はふわりと笑って文を見ていた。
「分かっていてよ。でもね──もう、忘れても良い頃だと、あたくしは思ってるの」
「……」
少女は答えず、ただ風呂敷に包んだ脇差をぎゅっと胸に抱き込んだ。
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