「文
【かざり】、前だ!」
 鷹の嘴が開き、低い男の声が流れ出た。はっと振り返ると狐精が文の喉元を狙って異様に伸びた爪先を繰り出してくる。

 ひゅっと風の切り裂く音がして、一撃目は避けた。右手をかわし、左手の攻撃もかわした所で狐精が間合いを取るのを、文は見逃したりはしなかった。

 大きく踏み出すと、両手を振り上げ上段構えで上から下へ──狐精の首を狙って脇差を繰り出した。
 狐精が目を見開き、適当に振るった腕が文の左腕を切り裂いた。

「文!!」
 目の前で白鷹が切羽詰まった声を上げるのを聞き、男──蜃也
【しんや】ははたと我に返る。

 視線の先に落ちている狐面に気付いて拾い上げる。先ほど文が狐精の注意を引くために投げつけたものだ。

《触レルナァッ!!》
 耳障りな声が菊の喉から出た。狐精の意識が狐面に向いたその瞬間、文は手首を捻って狐精──が憑いた菊の首を棟打ちにした。

 狐精は甲高い悲鳴をあげ、菊の口から黒い霧が溢れ出る。それはまるで血のように吐き出され、黒い狐の形を取る。

《ソレニ触レルナ!! コノ、人間ゴトキガァァァァッ!!》
 黒い羽虫の固まりの如き霧の狐が、かっと両眼を見開き、蜃也の持つ狐面に迫る。

 文はとっさに黒狐に一撃を与えたが、本性は霧だ。ぶわっと形が崩れただけで斬れはしなかった。

「その面から手を離しなさい!」
 文の声が耳を打ったが、そうは出来なかった。カタカタと不気味に震動する面は、明らかに目の前の黒狐と連動していて、向こうへ飛んでいってしまいそうなのだ。狐面を手にしながら、蜃也は本能的な怯えを抑えつける。

 どうやら目の前の黒狐の本体はこの面らしい。とっさに面を地に押し付けて拳を叩きつける。

 天薨が──鷹の姿を解き、初めの美女の姿に戻った天薨が蜃也の前に立つと、何処から取り出したのか薄絹の比礼【ひれい】を一振りして黒狐追い払う。

 その背にもう一度文が斬りつけて、形が崩れたところをすり抜けて面に向かう。
 あの狐精が抜け出たからには面はただの『抜け殻』だと思ったのが油断だった。狐面が本体なら、面を壊せばこの狐精は依って立つところを失って消滅する。

 文は腕の痛みを堪えながら蜃也の元に走る。文の背に向けて狐精が飛びかかる。少女はわざと体勢を崩すことで攻撃を避けようとしたが、袂が狐精の鼻面に引っかかって勢いよく振り飛ばされた。塀にぶつかって、ずるりと倒れる。

「よくも!!」
 天薨が血相を変えて飛び出し、狐精を弾き飛ばして追いやってから、文を抱きかかえる。

「大丈夫か、文っ」
「……んっ……」
 どうやら当たり所が良かったのか、文はすぐに意識を取り戻した。

 そのまま天薨がたんっと飛んで蜃也の元に降り立つと、ぐったりとしていた文がぐっと歯を食いしばって立ち上がる。脇差を逆手に持ち、柄を握りしめて蜃也に面を押さえているように言うと、面のちょうど額にあたるところに切っ先を突き込んだ。

《ヤメロッ、ヤメロォォォォォォォォォッッッ!!》
 狐精は一際大きな制止の声を上げたものの、最後の方には耳をつんざく悲鳴へと変わった。

 狐面が割れても、その欠片はまだ尚もカタカタと痙攣を起こすように動いていたが、それもやがて止まる。同時に黒狐もぱっと弾け散り、突風が吹いた。

 それを確かめると、大きな息を吐いて、文がその場に頽【くずお】れた。
「大丈夫か?」
 咄嗟に蜃也が少女を支えてやる。その間にも天薨が道に倒れて気を失ったままの菊を抱きかかえて文の側に膝をついた。

 蜃也は倒れた菊の脈を取って、文に打ち込まれたらしい首筋を見たが、上手いこと力加減をしたのかさほど酷くはない。

 文は脇差を支えにしていたが、その手も震えている。そっと脇差から手を離そうとしたが、天薨がそれを止めた。

「お前が触れていいものではない。文、それを早くしまえ」
「ちょっと……!」
 怪我人にその言い種は無いだろうと食ってかかろうとした蜃也を制したのは当の少女で、袴に挟み込んだ鞘に脇差を収めた。

 同時に天薨の手が蜃也の腕から離れ、青年は少女の左腕に触れた。
「っ!」
 文が身を引いたのに対し、蜃也はじっとして、と言って袂をまくり上げて傷口を露わにした。

「……深くは無いが、手当した方が良いな……」
「あの……」
 しまったな、道具がないなどと呟いている蜃也に対し、文は遠慮がちに声を掛けた。まさか前に助けた人間にまた会うとは思わなかったのだ。

 蜃也は顔を上げるとふわりと笑った。場違いな笑顔に文は呆然とする。
「僕の名前は賀上蜃也と言う。貴女にお礼を言いたくてね……でも今はそれどころじゃないな。
 僕の家が近いから其処で手当てするのが先だ」
「ちょっと、そんなっ」
「別にお代とかは良いから。一応僕も医者の端くれだし君には恩がある」
 言ってさっさと文を担ぎ上げようとするのを、天薨が止める。

「あたくしたち、あなたとは何の関係もありませんわ。手当ならうちでも出来てよ」
 冷たく言い放ったが、蜃也は不思議そうに首を傾げた。

「貴女はともかく、文さんに会うのは二度目だし、狐面を押さえたのは僕です。無関係とは言えないんじゃないかな」
「……」
「この間のお礼もしたいと思っていた所だし、丁度良い。幸い僕は医者だし家が近い。怪我人を目の前にして手当しないなんて医者の肩書きが廃るよ」
 すらすらと述べる蜃也に、二人は沈黙する。蜃也の言うことは正論だったからである。

「それに、僕が文さんに何かするんじゃないかと疑ってるんならとんだ見当違いです。文さんは刀を持っているし、利き腕が傷ついてるわけじゃないから斬ろうと思えば、斬れる。それに天薨さん、貴女も人ではなさそうですけど相当出来るお方でしょう。
 比べて僕は素手で面も割れない程度の男です。──ということで信用して頂けませんか?」
 文は天薨の様子を伺う。天薨はじろじろと蜃也を不躾なまでに見てから、小さく頷いた。

「宜しいでしょ。でも手当をしたらすぐにお返し下さいませ」
「分かってます」

..................................................................................................................

   *      *   

..................................................................................................................