濃色
【こきいろ】の小さな桜模様が染め抜かれた着物に臙脂色の袴を身につけ、軽快に走る足元は編み上げ靴。風に嬲られる長い髪は一つに纏めて紐で結い上げた。走るのに邪魔な脇差は抜き放ち、鞘だけ袴に挟み込んでいた。

 電灯も消えた真夜中、文は一週間ぶりに『狩り』に出ていた。
 今回の『獲物』は最近持ち込まれた狐面に憑いた妖狐だった。

 とある能楽家の遺したもので、その死に際まで面をつけていたのが原因か、身につけた者が皆病に倒れたり、最悪亡くなる者まで出てきたという面である。それは能楽家達の間を人伝に流れ、やがて骨董収集趣味の某家の主人の手に渡った。その頃には怨念が、狐精の形を取るまでになっていた。

 鵺野家の主──つまり文の父親は明日にも寺で供養するよう命じていたのだが、それを悟ったらしい狐精が『逃げた』。

 文の家の若い女中の身体に取り憑き、外へと飛び出したのを追い続けて四半刻ほど経った。元々体力自体には自信のある方だが、相手は何せ人の身ではない。自然、こちら側には疲れが出てくる。

「足止め出来ないか、天薨!」
『良かろう』
 文が呼びかけると天薨はあっさりと承知し、その一瞬後には前を走る狐精の前に、ふわりと姿を現した。
 銀色の長い髪を結わずに背に流し、白い小袖を纏った幽艶な美女だった。

「──ッ!?」
 流石にいきなり眼前に人物が出てくるとは思わなかったのだろう。狐精も立ち止まったが、牙を剥きだしにして天薨に飛びかかった。

 天薨は切れ長の目をさらに細め、片手を突き出す。飛びかかってきた女──の姿をした狐精──をあっさり吹き飛ばす。しかし狐精は宙で身を捩って見事地面に着地した。四つん這いになって天薨の様子を伺っている間に、文が追いついて脇差を正眼に構えた。

 狐精は追いついてきた文と正面の天薨のどちらを相手にするか、一瞬逡巡したのち、たっと天薨の方に駆け出した。
「──あたくしに手を出すなんて六百年は早くてよ!」
 再び片手を突き出し、口元に笑みを佩く天薨は、楽しそうに言い放つ。すかさず文が声を張り上げた。

「天薨、傷つけるのは……!」
「分かっていてよ。──文、あたくしが信用できなくて?」
 歌うように返し、飛びかかってきた狐精をはじき飛ばそうとした──その時、いきなり女の身体が傾いだ。ぜぇはぁと荒い息を上げ、苦しさに喘ぐ女が天薨を見て、僅かな光明を見出した様に声を振り絞った。

「……あ、たす……助けて……!」
「お菊!」
「!?」
 狐精が憑依を解いたのか? と戸惑い、傾いだ菊の身体を支えようと手を伸ばしかけたところで菊の表情が苦しげなものから、不敵な笑みに変わる。

「──っっっっ!! この女狐ぇ〜〜っっっ!!」
 天薨が苛立ちも露わに叫び出すのを尻目に、狐精がひらりと天薨を飛び越えた。

「あれは雌なの?」
 真剣に聞く文に対し、天薨はぱさっと長い髪を背にはねのけた。
「ああいう手合いは女狐だという古今の法があってよ!」
「一体何処でそんな事を……」
「お黙り」
 毎度の事ながら、姿形によって言葉遣いから立ち振る舞いまで変わるのはどうも調子が崩れる。

 言い合いながら、二人は駆け出している。再び狐精との追っかけっこである。
「ったく、きりがないわね」
 息も上がって汗だくの文とは違って、涼しげな顔で天薨は言う。ふっと女の姿が消え失せたかと思うと次は銀色の艶をもつ白い鷹へと変じた。

 もう一つの月が現れ出でたような清しい姿が夜の闇に生まれ、狐精目指して滑空する。鋭い嘴が狐精を攻撃したのか、ギャンッと高い悲鳴が上がった。

「っ、天薨っ」
 傷つけるな、と言おうとしたが息が詰まって言えなかった。しかし天薨は文の忠告を感じ取ったか、狐精の周りを飛んでめくらます戦法に変えた。
 これが功を奏して狐精の足が鈍った。

 ──いける!
 文が確信した時、狐精の目の前に人影が過ぎった。

 危ない、と文が叫ぶよりも早く狐精が跳躍してその人影に躍りかかった。今は白鷹の姿の天薨が、人影の服を掴んで引き倒したお陰で、狐精の攻撃は空振りに終わった。

 文は小さく安堵の息を漏らすと、すかさず懐の中に手を突っ込んで目的の物を掴みだし、狐精に投げつけた。

 狐精は素早く身を翻してたんっと身軽に飛び跳ねた。その間に倒れ込んだ人と天薨を背に庇う位置に立つ。

「……あたたた……乱暴だけど助かりました……」
 どうやら天薨が引き倒した時に何処か打ったのだろう。そんなことを呟きながら起き上がったのは男らしかった。しかも何だか聞き覚えのある声で──

「あなた、この間の!?」

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