「ええっと、賀上蜃也
【かがみしんや】先生?」
 首を傾げ、確かめてくる壮年の男に対し、蜃也はそうです、と答える。

「先生、だなんて大層な呼び方をされるほど、僕は玄人でも何でもありませんが」
「確かまだ研修医だったかね?」
「ええ、そうです」
「そうかねぇ? 研修医だろうが病院に居たら先生で、偉い人だと思うんだがねぇ」

 蜃也はそれには答えず、男から手渡された書類に氏名や住所などを記してゆく。見たところ年の頃は二十代前半から半ばくらい──生年月日を確認すると今年で二十四歳らしい。年相応、というよりはやや幼い顔立ちだが、それは柔和な笑顔のせいかも知れなかった。

「おや、先生。まだ独身なのかい? 意外だねぇ」
 扶養家族無しの欄に丸を付けた蜃也を見て、男は心底不思議そうに首を傾げた。

 普通であれば支度金を整えるのも一苦労だから、三十代、四十代で妻を娶る例も少なくないが、まだ駆け出しの新米医師とはいえ、一般家庭の収入より遙かに良いだろう。

 それに加え、蜃也の顔立ちは多少年齢より幼く見える事さえ気にしなければ、整っていると言えたし長身で姿も良い。最近では珍しくも無くなった洋装もしっくりと馴染んでいる。

「いえまぁ……そんな暇が無くて」
 そんなふうに曖昧に誤魔化しながら、蜃也は記入欄を埋め、男に書類を返す。

 それを確かめて数度頷くと、手続きは完了だ、と言って笑った。
「……しかし、臨時とはいえまさかこんな若い男の先生が来るとは思わなかったなぁ」

「申し訳ありません。本当は雪谷永子【ゆきやながこ】先生が来る予定だったんですが……担当の患者【クランケ】の体調が思わしくないそうで、急きょ僕に回ってきたんです。
 元々この近くの病院に移る予定だったので、都合が良いと言えば良いんですけど」
 と、蜃也はそこまで言って眉を寄せて、顔を顰めた。

「……やっぱり女子校の校医に男はまずいですかね」
 何も聞いていなかったから、簡単な気持で引き受けてしまったことを、少しばかり後悔する。

「保健室が大盛況になるだろうなぁ」
 男はからからと笑って蜃也の肩をばしばし叩いた。

「まぁ、此処に通うのは良家のお嬢さんばかりだからね。怪我を作るような娘も少ないだろうよ」
「……はぁ」
 蜃也は曖昧な返事をして、同じくらい曖昧な笑顔でその場を辞した。

 ──清英女學校。
 瀟洒な煉瓦造りの校門に、校章と校名が刻まれている。蔦の這う年季の入った門や木造の校舎はいっそ簡素な程だったが、長くこの地にあり、多くの生徒を輩出してきたであろう、その年月の重みが感じられた。

 この辺りの良家の子女が通う学校の中でも、有名な内に入る女学校である。蜃也はもともと此処から乗合馬車で二十分程の所にある片桐医院に勤める事になっていた。

 だが、この女学校の校医が産休を取るとかで空きが出、代わりに収まるはずだった雪谷の都合がいきなりつかなくなり、他に回せる人手が無かったので、蜃也にお鉢が回ってきたのだった。

 それに重なるように母親の危篤の知らせが入った。結果的に手続き自体も早めに済み、当初夏からの予定が早まって、春休み終了後の新学期には校医としての勤務が始まる。

 あの夜──
 何やら事情のありそうな少女と出会った夜に、母親は静かに息を引き取った。穏やかな死に顔で、苦しまず最期を迎えられたというのは喜ぶべきことかもしれない。

 葬式は親類だけで慎ましく行い、荼毘【だび】に付された遺骨は近くの墓地に収めることになった。父と同じ墓に入れるかどうか、姉と暫く揉めたものの、当初の予定通り、同じ墓に埋葬しようという結論に落ち着いた。

 何より母親が生前にそう望んでいたと聞いたし、父方の親戚達とその様なことで言い争うのも気が引ける上、後味も悪い。

 財産と呼べる物は無かったし、姉は既に嫁いだ身、蜃也は病院間を転々とした生活で一所に落ち着いていない、ということで家財の殆どは売り払って空き家にした。遺骨は蜃也が引き取って、今はアパートの部屋の隅にある小さな仏壇の中に納まっている。

 気に掛かるのは、母親が遺した言葉だったが、蜃也には特に心当たりがなかった。

 ふと、あの時、少女が居なかったらどうなったろう、という思いが過ぎった。

 おそらくあのまま男に殴られるか噛みつかれるかして、到底母の死を看取ってやる事も出来なかっただろう。最悪、自分はあのまま息絶えていたかもしれない。

 そのくせ、礼一つ言っていなかった事に気付いて、はたと立ち止まった。人の流れの絶えない大通りでいきなり歩みを止めた蜃也に、周囲が不審な目を向けて通り過ぎる。

 しかし、蜃也はそのことに気付かず、ふと思い至ったその考えに囚われてしまった。一度気になると何となく胸中が落ち着かず、家に帰ってからも頭を離れない。

 しかし、少女の名前どころか、顔さえもはっきり見たわけではない。礼を言おうにも会えないのでは意味がない。書き物をしていたものの、そんなことを考えているので筆は進まず、思考は別の方向へ向くばかりである。

 しばらく頭を捻らせ悩んだ結果、
「……よし」

 出会うかどうかはある種賭けだったが、蜃也は外套を手に取るとアパートの部屋を出た。

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