鵺野文【ぬえのかざり】は走ったせいで上がった息を整えながら、今走ってきた道を振り返ってみた。誰も追ってこないことを確認し、調子を緩めて歩き出す。さっきまで鞘ごと剥き出しにしていた刀──正しくは脇差【わきざし】だ──は素早く風呂敷で包み、胸に抱える。 そしてもう一度大きな息を吐いた。 今日の事を夢か何かと思いこんでくれればいい。自分の所業が人に知れて良い類のものではない、という事は己が一番良く分かっている。その上で、この件を一人で担っているのだから。 「……天薨【てんこう】」 「見つかったのはまずいかしら」 淡々と返ってくる声は、頭の中に響いた。しかし、その声は男なのか女なのか、はたまた若いのか年老いてるのかも判然としない不思議な声だった。天薨という存在が人でないことを文は知っているが、じゃあ何かと問われればそれは『分からない』。 他の人間が聞けば幽霊だ、いや妖だ、神だと言うだろう。文は天薨のことを、それのどれでもあり、又そのどれでもない存在だと位置づけている。言葉にすると矛盾なのだが、文にはそうとしか言えなかった。 「……そうね。そうだと良いわ」 それは文の片手でもすっぽりと納まるほどの大きさの手鏡だった。鏡面には細かな亀裂が入り、使えたものではない。ひっくり返して見ると、蝶と桜の図柄が見事な蒔絵で表現されている。 さぞかし名のある工匠が作ったのだろうが、鏡面と同じく亀裂が大きく入っているとなると、その素晴らしい品も台無しである。 この手鏡は古い物ではないが、いわれのある品だった。 何でも言い交わした相手のいた某家の娘が持ち込まれた縁談を蹴り、それを無理強いした父親への当てつけか、その相手と無理心中をしたらしい。その相手というのがその家の下男だったという。 娘の遺品の一つがこの手鏡であり、これが夜な夜なすすり泣く声が聞こえるということで、憔悴しきった家の主が鵺野家に持ち込んだのである。 鵺野家にやってきた手鏡はすすり泣くことは止めたが、元の家に『戻って』しまうことが数度あり、今夜はそれを探しに出ていた所、手鏡を手にした男に出会ったのである。あの男は娘と共に無理心中をした例の下男のようで、娘の形見を欲していた。 鵺野家はその祖先は物部氏、十種神寶【とくさのかむだから】と呼ばれる品々を預かった一族の末裔である。とは言え時代を下る内に様々な血が入り、傍系も傍系なのだが、何かの因縁があるのか所謂『曰く付き』の品が持ち込まれることが多い。 それでなくとも鵺野家と言えばこの近辺では知らぬ者の無い素封家でもある。その財に目を付け支援を申し出るのに、家宝などと称して様々な物が持ち込まれるのだ。 今、文が手にしている脇差もそんなものの一つだ。何故鵺野家にあるのか、今ひとつ詳しい事は知らない。ただ、天薨という存在はこの脇差を守る為にあるらしいということは、聞かなくともそれとなく感じられた。 「……今日も、奇妙だったわ」 「斬ったら、黒い霧に変わった……このところ、いつもそう。 『……何かの均衡が崩れておるのかもしれんな』 だた胸中に、暗雲が立ちこめたような不安や胸騒ぎを感じた。 |