白河夜船

 ぱしゃん、と水音がしてそこで初めて川岸にいたのだと、分かった。

 どこの川岸かはよく分からない。けど、昼と夜では驚くほど街の表情は変わる。もしかしたら近所に流れる川かもしれない。案の定、右手を見ればどこか見慣れた街並みが白く浮いて見える。

 何気なく足を動かして水面に波紋を生み出す。涼しげな水音を聞きながら、何で川に来たんだっけ、と首を傾げてみる。
 ───そう、今日は初秋にしては稀なくらいの熱帯夜で、寝苦しくて、それでつい涼みに出てきたのだ。

 思い出せたことに満足して、私は意味なく頷いた。まさか寝間着のまま外に出るわけにもいかなかったから、黒いワンピース姿だ。しかし、羽織るものは持ってきていなかった。こうして水辺にいると少しばかり肌寒いが、仕方ないと諦めるしかない。それに、私はこの川から離れたくなかったのだ。
 足に触れる水の感触、川の流動、僅かな鼓動。それらが心地よく、目に楽しかったから。

 ぱしゃん、ぱしゃん、と連続的な水音と飛び散る形の決まらない宝石。
 何も考えず──何かは考えていたかもしれないけど、少なくとも考えていると意識しなかった。──ゆっくりとした動作で足を動かし、止めた。だが、水音は規則的に続いている。

 そのことに気付き、はっとして顔を上げた。何を一生懸命になっていたのか知らないが、このとき初めて水面以外の景色が目に飛び込んできた。──空だ。濃紺の、夜空。
 それと───

「こんな所で、人に会うとは思わなかったな」
 と言って、きょとんと首を傾げている少年が、いた。私は金縛りになったみたいに、身動きが取れずに呆然と彼を眺めた。

 銀色の髪に、白く浮く輪郭──でも一瞬の後、彼の髪が漆黒であることに気付いて苦笑する。人外のものが出てきたのか、という自分の思考が可笑しかった。
 単に、月の光が眩しかっただけなのに。

「…もしかして、僕がいることに気付いてなかったの?」
 言いながら、水面を軽く蹴る。わずかに眉をひそめる少年は、すらりと背が高い。輪郭は、柔らかそうな曲線を描いていて幼い。先程首を傾げた仕草などは、無邪気で愛らしいとも言えた。おそらくは、私よりも年下だろう。

 彼の問いに、私はごめんと謝った。こんなに近くにいたのに、気づかなかったなんて悪いと思ったからだ。何故かこの少年には悪く思われたくないな、と思った。
 しかし、少年はあんまり頓着していないらしく、別にいいよと笑顔になった。何処かで見た顔だな、と感じたけど思い出せなかった。この、不確定な曖昧さが心地よかったのであえて思い出すのをやめた。

「君、だぁれ? どこの人?」
 何か喋らなきゃいけないなと思って、素朴な疑問を投げかけると、彼はんー、と相づちを打ちながら再び水面を蹴る。
 しばらく唸ってから、少年は背後を振り向き──月のある方向だ──指で示す。
「向こう側から、来たんだ。 名前だったら白夜
【びゃくや】
 告げられた名前に、思わず私は瞠目した。

「びゃくや…って、『白』い『夜』?」
「そうだよ。 君は?」
「私は、夜白
【やしろ】。 和泉【いずみ】、夜白」
 私が告げると、彼───白夜は数度瞬き、小さく首を傾げた。

「もしかして、やしろって、『夜』に、『白』?」
「そうよ。…偶然ね」
 笑って、私は言った。少年は私が瞠目した意味を知って、納得したような表情を浮かべて頷く。
「うん。偶然って、凄いね」
「凄いよ」
 くすくす笑いながら、言い合う。人とは、おかしなものでちょっと似ていたり、共通点があるだけで親近感を持てる。初対面でない人と会うような気安さが生まれるものだ。

「それで、白夜はどうして川なんかに?」
 私が問い返すと、白夜は額にへばりついた髪を払いながら言う。
「暑いし。迷ってるから」

「…何、川で迷ってるの」
 少し呆れて、私は言った。川の周辺で迷うような、そんな複雑な道では無いはずだが。
 すると白夜は少し笑った。どこか陰があって、寂しげな。年下の少年が持つにしては、大人びた。

「夜白は、迷ってないの」
 問い返されて、言葉に詰まった。詰まったことに、驚いた。

 この辺りは私が生まれてずっと過ごしてきた土地である。この川も、周りの街も、知り尽くしている。あの橋を渡って、いつも会いに行っていたのだ。
 それなのに、白夜の問いに、私が迷っていることに気付かされた。

 ───何に?一体、私は何に迷っている?

「…わからない。もしかしたら、迷ってるのかも…」
 心許ない答えを返すしか他、術がなかった。
「それじゃあ一緒だね。…珍しいな。今日はよく人に会う」
 と、独り言めいたことをもらす白夜。

「今日は、ってことは…前から、ここにいる?」
「そうだね。あんまりここに来るものだから、何往復したかも覚えてないよ」
 水面を眺めながらの淡々とした台詞。乾いた声だな、と思った。
 こんなに水気の多い場所で、こんなに湿気た夜に、まるで木枯らしを思わせる乾いた冷たさがあった。

「…ねぇ」
「何?」
 私は、俯き加減に問うた。
「さっき、私の前に、誰に会ったの?」
 何故か訊くのに躊躇ってしまう問いだった。ぼんやりと水に浮かぶ白いものが──それが、自分の足だと気付いてぞっとする。

 自分の、その肌の色が白すぎることを恐れた。血色が悪い、なんて問題じゃない。これではまるで死人の足だ…。
 透明な水は底の色を映して闇色になり、その表面を月が濡らして水銀のようにうねる。

 少年は、答えなかった。見えたわけではないけど、少し瞼を伏せて唇を引き締めている様子が目に浮かんだ。
 答えを待つ間、私は何かに試されているような、裁断を下されるような、妙な緊張感に襲われていた。彼が答えることによって、私の何かが崩れていくのではないかという懸念さえ覚えた。

 私の足元はこんなに不安定だったのか、と認識せざるを得ない。
 それでも、それでも白夜の答えを聞きたかった。恐れながらも、すがりつかずにはいられない、そんな気持だ。
 敬虔な信者というものは、それを持つ存在を神と呼ぶのだろう…。

「…ねぇ、夜白。忘れてることは、ない?」
 長い沈黙の後、白夜が吐いた言葉は答えでは無かった。期待していた分、肩を落としたが安堵したのもまた事実だ。
 少年の問いを反芻する。忘れていること…忘れていること──?

 そこで、初めて私の記憶がほとんどないことに気付く。忘れていることばかりで、何を思い出せばいいのかわからない。何かの神経が切れたのかと疑ってしまうくらいに。

「……私……」
 震える声で、言葉を紡いだ。その声の死にそうな調子がひどく不思議だった。
 何も考えられない。別の何者かが、私の口を借りて喋っているかのような感覚で、なおも私の口は言葉を吐き出そうとしている。

「私、あっちへ行きたいの。白夜が、来た方に」
 顔を上げて、少年を見て、告げた。

 白夜はひどく苦い顔をして、首を横に振る。
「それは、駄目だよ。夜白」
 凛とした声で、はっきりと否を告げられる。今───自分で口にするまで気付かなかった願いは、あっさりと潰えてしまったのだ。
「…どうして?」
 私は、彼から視線を逸らした。視線はふらふらと焦点を定めず、やがて水面に留まった。

 いつも、私は橋を…この川を越えていた───にも関わらず、私は向こうへ渡れないというのか。
 あの人に、会えないのか。
 うねる水銀に、身を絡め取られて重いような感覚。

「…夜白は向こうへ行けないよ。 行けばたちまち溺れて、おしまい」
「何往復も、したんでしょう?」
 私はそう言ったが、こんなでは彼を納得させることは出来ないだろう。案の定、白夜は再び、だが断固とした雰囲気でゆっくりと首を振った。

「僕にとっては身近なだけ。ここは夜白の知ってる川だけど、知らない川でもある。
 …貴女には越えられない、そういう川だから」
 言いながら、ぱしゃぱしゃと水音を立てて川岸に腰を下ろしたままの私の前に立つ。

 月の逆光で、白夜の顔は薄闇に隠れているもののその肌の白さは抜けるほどで。先程見た自分の肌と似ていることに、気付いた。
「僕はね───
 この川を何度も往復してる。昔からずっと。貴女みたいに渡ろうとした人もいるし、引き返してきた人もいる。
 嫌々ながら渡る人もいるし、楽しそうに渡っていった人もいる。
 でもね、僕や、貴女みたいな人を除いて、みんな迷わずにここを進んで立ち止まったりしない。
 迷ってる人は、渡るべきじゃない…渡るべきじゃないんだ」
 白夜は、きっぱりと断罪するように言葉を紡ぐ。言い聞かせるように。それを拒否して私はまた首を振る。

「嫌だよ、待ってるもの。きっと。私は会いたいもの」
「…夜白、僕は多分その人に会った。後から来る人がいたら、止めてやってって言われたんだ。
 その人は、迷わずに渡ったよ…」
 私は、ああと声を上げた。

 何故ここにいるのか、どうして川岸を離れたくなかったのか、忘れてたこと全部、思いだして。
 私はここにいられない存在で、あの人にももう会えないとわかって───
「…白夜、私…」
 うん、と彼が頷く。

「さぁ、夜白帰らないと。僕たちは帰らなきゃいけない」
 差し出された白い手を、恐る恐る取った。

 その途端、白夜との距離が延びていくように感じて───
 世界が白濁した。

 目が覚めるとそこは病院で、私は清潔なベッドに寝かされていた。話によると、あの日──初秋とは思えないほど暑かったあの日、近所にかかった橋の上で、私と彼を乗せたバイクが事故を起こしたのだ。
 多分、ちょっとしたハンドルミスだったのだろう。あまり事故を思い出させないように、詳しくは語ってくれなかった。

 彼の方は、即死。私は意識不明の重体で、二日ほど目を覚まさなかったようだ。だが、奇跡的にも骨にひびが入り、頭を強く打ったものの、何度か検査を繰り返したが後遺症も見あたらなかった。

 入院中、私は白夜という名の患者がいるかどうかをさり気なく確かめてみた。
 だが、返ってきた答えは、『否』。同じ川のほとりにいたのだから、近くにいるのかものだと思いこんでいたことに気付かされた。それだけに、見つからない、という事実が重くのしかかり、寂しかった。

 二日眠っている間、私はあの少年に会っていた、と確信している。
 彼もまた、私と同じく生死を彷徨っていたのかもしれない。彼の場合は、何度も、何度も…。
 でも、私たちは、あそこにいられない存在だったから、きっと彼も今頃私と同じように、『夜白』という名の患者を捜しているのかもしれなかった。

 私は首を振って、少年の事は意識から追い出した。私はあの人の葬式には当然の事ながら参加出来なかったから、お墓を参る予定だった。好きだと言っていた花を、供えようと思う。
 それからでも、あの少年を捜すのも遅くないと、感じた。雑踏の中で、ひょっこりと姿を現しそうな、そんな気がする。

 私はあえて月の綺麗な夜を選んで、あの橋に行った。
 白く輝く河を眺めて、何をするでもなく。何も言わずに。
 こうして尽きることなく水が流れるように、私の時間が流れていっても、ここであった彼らのことは忘れない。

 それじゃあ、私はもう行くね。

 そう呟いて。

・了・


【白河夜船】 2002.7.21/2004.3.18 改訂

久々に書いた短編です。『鬼桜』から約四ヶ月くらいかな??でもまぁ打ち込んだのが7月であって書き終わったのは5月か6月だから、私にしては早いペースと言えるのではないでせうか。

この話を書くきっかけになったのは、今でもなく(笑)吉本ばななさんの『白河夜船』です。この話を読む前に(ぇ)、題名の意味が『何が起こっても気付かないくらい眠ること』だということを知り、『ををッ!!』とか思って使うことにしました。
 でも、出来上がってみてみれば、全然爆睡じゃないです。これは爆睡じゃなくて、昏睡状態って言うんですよ。(爆
死にかけですよ、奥さん(笑←マテ
 話の流れとしては…まぁ…ね…自慢たらたら載せるようなブツではないんですけど…何となくフィーリングで何か感じてくだされば、いいなぁ…(弱

そーいえば、『あの人』の名前とか、白夜少年の苗字とか、夜白嬢の年齢とか、細かいとこ全然決まってないなー…。いつものように勢いだから…。そういう、どっちでもいいけど気になるぜって方がいらしたら、ごねることにします。(ぇ

下書きをパソに打ち込んでたら、文章かなり変わってしまった(爆

ではではこれにて。