幸福論。


























 わたしが斎木
【ゆき】家に生を受け、「ゆら」の名を授けられたのは二十一年前の冬の日だ。両親は自分たちの苗字のことを失念していたらしく、出生届を出したのち、よくよく名前を読み上げてみると何とも簡単ものとなっていた。お陰で小学校の持ち物に書かれた四文字のひらがなの名前は、わたしにはひどく不格好に見え、隣の「あおききょうこ」という六文字も七文字もある彼女の名前が羨ましいと思った時期もあった。


 わたしの家はどこにでもある社宅の一室で、家賃の安さだけが取り柄のような家だった。だが、両親とわたしの三人暮らしをするのに適度な狭苦しさだったのだ。
 近くの幼稚園に通い、近くの小学校に上がり、そして近くの公立中学校に上がった。高校だけは私立だが、特に珍しくもない、何処にも特筆すべきのない、至って普通の経歴だ。


 わたしは一人っ子なので、両親には愛されて育ったと思う。その分人見知りで、目立つこともなく至って大人しい生徒だった。それは小中高と変わらない評価だったし、いつだって「真面目」のレッテルを貼られていた。


 本当のわたしはずるをすることばかり考えた、かなり計算高い子供だったが、それを見抜ける先生は一人としていなかった。
 親しい友人は何人かいたが、深くつき合った人間はいない。
 世の中を生き抜くには世の中に多少は従順、もしくは妥協せねばならない、という考えがどこかにあって面白くもない話に相づちを打つこと、下らないことでも奇声にも似た笑い声を上げること覚えていった。だから周りにはいつも友人らしき人間がいて、わたしの評価は「真面目で大人しく、まぁ面白いヤツ」となった。


 わたしはこれまで、彼女たちと衝突せずに生きてきた。わたしはこの先も何者とも衝突せず、穏やかに生きていくのだという直感めいた確信があった。
 周りからはつまらないと言われるだろうが、わたしはそれを望んでいた。
 現代の人間、現代の世界のペースに付いていくことに疲れを感じていたわたしには、そういうマイペースな人生が相応しい、そして隠者のようにひっそりと死ぬ。遺産も子孫も残さず、煙の様に消える。わたしがいたという痕跡を全て消してしまおう。そう、思っていた。


 曖昧かつ甘美な人生設計を描いていたわたしに転機が訪れたのは高校二年も終わろうとしていた二月初め。
 まさしく、青天の霹靂だった。
 わたしはいきなり殺人犯の娘になってしまった。





 わたしは目の前に座る女性を見た。五十絡みの女性で、なかなかの美人と言えた。白髪の交ざり始めた髪は栗色に染め、きちんとセットされていた。ふんわりと柔らかそうで、幽かに香水の匂いがした。
 白いブラウスに、濃いベージュのツーピース。胸元に光るのは弁護士のバッジ。
 長澤響子
【ながさわきょうこ】。確かそんな名前の女弁護士だった。


「お久しぶりね、ゆらちゃん」
「……どうも」
 わたしはおざなりに返事をして、軽く頭を下げる。気のきつそうなこの美人弁護士がわたしは苦手だった。


「親戚の家での生活はどう? 上手くいってる?」
「……それなりに」
 そう、わたしは素っ気なく答えた。


 家に帰ると父親が、血まみれのまま包丁をひっさげて立っていた。足元に倒れているのは母親らしいということは分かった。
 父がわたしに向けて包丁をかざし、襲ってくるのを見て、わたしは無我夢中で逃げた。
 ただ、怖かった。
 血走った目でわたしを見て安堵したように笑ったのだ。
 自分を生んでくれた肉親のはずなのに、その形相はまるで別人で。
 父親は、その後姿を消した。何処へ行ったかも知れない……。


 わたしは事件の後、親戚の家に引き取られることになったが、この事件はすぐに報道で表に出た。それからひっきりなしにマスコミや野次馬がやってきて、しつこい取材申し込みや家への落書きや悪戯、電話などで神経がピリピリとしていた。


 当然、親戚のおじさんおばさんからの風当たりもきつく、学校に通わせてやってるだけでも有り難く思え、と言わんばかりの態度だった。
 人が良さそうに見えて、その実、保険金や遺産が目当てだったと知ったのはつい最近である。
 わたしに転がり込むはずの遺産は、兄夫婦である私の養い親の懐に消えた。大学受験を考えて、貯金していたお金だけは、と思って、母親が懇意にしていた弁護士の元に相談したのが、最初だった。


 今は一応、財産管理をしてくれているが、滅多に会うことはない。時々わたしの携帯に連絡が入って、やれ手続きだとか何とか口実を設けて会う。
 本当は、養い親と上手くなんか行ってない。そう言うと、この人にいろいろと突っ込まれて、やれ裁判だ慰謝料だという話になるだろう。
 そんな面倒なことにはしたくなかった。


「学校には、行ってる?」
「……時々」
 嘘だ。あの事件以降、学校には顔を出しては見たものの、好奇の視線に耐えられず行かなくなった。
 先生にも呼び出されてほとぼりが冷めるまで、と言われ、もう二ヶ月行っていない。


「……ねぇ、学校を移る気は、無い?」
「どんな田舎ですか」
 わたしはひっそりと苦笑して、そう返した。あの事件は全国を駆けめぐって知らない人は居ない。
 わたしの名前はばれていなくても、斎木なんて珍しい苗字は何人と居ないはずだ。


 誰もいないところで、ひっそりと消える。あぁそうか、田舎も悪くないかな。ぼんやりとそう思った、けれど、
「良いです。わたし、田舎じゃ暮らせそうにないですから」
「あのね……」
「わたしの両親が死んだ理由。一体何なんだろう……」
 長澤の台詞を遮って、わたしは漏らした。


 実は、詳しく知らないのだ。テレビでは父親が借金を作り、それを苦に一家心中しようとしたことになっている。しかし、その情報もはるか昔のものだ。
 確かに借金は、あった。高校生のわたしには想像出来ない程の額だった。
 けれど……あそこまで追いつめる程の額では無かったはずだ。それに、自己破産という手もある。それが何故、殺人に走ったのか、よく分からない。全く、見当もつかなかった。


「……事故だったのよ。不幸な偶然が重なった。
 そうでもないと、詠子
【うたこ】があんな……あんな死に方をするはずがない」
「……そうですね」
 私はむしろ淡々と、頷いた。





 長澤と別れて、わたしはふらりと公園に立ち寄った。


 結構な広さの公園で、散り始めた桜が綺麗だった。みすぼらしい公園なのに、その桜だけは、綺麗で。
 桜の木の下に設置されたベンチに腰掛け、ぼーっと眺める。
 子供達の笑い声がさざめいて、陽光がふわふわと暖かい。事件の日は底冷えするような寒さだったのに対し、なんてのどかな光景なんだろう。
 コートのポケットに両手を突っ込みながら、そんなことを考えていると、上からぼとっと何かが落ちてきた。


「……」
 コートの上に見事着地したその物体は、メロンパンだった。しかも食べかけの。
 予想外の物体の出現に、どうしようもなくて取り敢えず手に取ってみた。


「あ、ゴメン。それ俺の」
「え?」
 上から声が聞こえてきて、ぱっと振り仰ぐと、そこには木の枝に腰掛けた男がいて、人差し指でわたしが手にしたメロンパンを指していた。


「……メロンパン、美味い?」
 いきなり問い返したわたしに、男は首を傾げたが、案外素直に頷いた。
「美味いぞ。焼きたてだから」
「ふぅん」
 わたしは相づちを打って、おもむろにメロンパンを千切って食べた。
「あ」
 彼も、そう声を上げたきり、呆然とわたしが咀嚼しているのを眺めていた。


「……おまっ、それっ、最後の一個をゲットしたのに!」
「落とすからいけない」
 わたしは言うと、半分くらいになったメロンパンを彼の手に返してやった。彼はものすごく残念そうな顔をしてそれを受け取った。わたしはそれを見ながらちょっと大人げなかったかなと思ったが、もうメロンパンは胃袋の中なのでしょうがない。


「……何で見知らぬ女にメロンパンが奪われるのを容認しちまったんだ俺は……」
「ごちそうさま」
「金払え」
「けちくさいぞ」
「勝手に食ってそれかよ?」
 まるで初対面とは思えない絶妙の間である。残りのメロンパンはあっさりと男の口の中に消え、それを見ながらわたしは問いかけた。


「そこで何してるの」
「花見」
 答えはかなり簡潔だった。そりゃあ確かに一番花に近い場所かもしれないが。


「……正直不審者?」
「お前も補導されっぞ」
「残念。この近くに交番はないの」
 わたしは言うと、再びベンチに座り直した。すると、男もすたんっと身軽に下りてきてわたしの隣に腰掛けた。


「花見は終了ですか」
「邪魔が入ったから一時中断。むしろメロンパンの恨みは深い」
「……あ、そう」
 メロンパン男は、どうやらわたしよりは年上のようだった。正面から見た時は同い年くらいかと思ったのだが、意外にすっきりと整った横顔はわたしよりも年上に見える。大学生だろうか? 少なくとも真っ昼間から花見を木に登ってするような人間には、傍目には見えなかった。何処にでもいるような、普通の、男だ。多分。


「お前こそ何してるよ」
「何でもいーじゃん。ちょっと不良してるのよ」
「……不良ってちょっとするもんか?」
 もっともな質問が返ってきたが、負けたくなかったので何も言わなかった。


「桜前線、どこまで行ったのかね」
「もう北海道まで行っただろ。ニュース見ろ」
「わたし、ニュースは嫌いなの」
 事件のことが報道されるからニュースは見ないのだ。


 彼と交わしたのは、何気ない会話だった。しかし、何で公園で、初対面の男と、天気の話なんかしてるんだろう、と思ったのは事実だ。でも、たまには良いかな、という考えが頭を過ぎった。


 長澤と会った後は何となく疲れる。公園でジュースでも飲んで桜見て帰ろうと思っていたのだ。
 ジュース代わりのメロンパンは喉が渇いたし、会話は特に面白みも無かったけど、それでもいいやという気持で一杯だった。


「桜、綺麗だなぁ」
「死体が埋まってるかもね」
 わたしが何気なく付け足すと、彼は眉を顰めた。


「紫陽花じゃあるまいし」
「……フツーもっと気味悪がるだろ」
「るせー作家だか文学者だかが言ったことを鵜呑みにできっか」
 何かよくわからん理由で説得された。


 そのまましばらく沈黙が続いたが、嫌な沈黙ではなかった。桜が散るのを見ながら、隣にまるで空気の様な男。
「……帰ろっかな」
 ぽそっと呟くと、彼は頷く。
「そうしろそうしろ」
「うるさい、学校行け」
「その台詞、そのまま返す」


 結局、名前も聞かず、わたしはその公園を後にした。





 わたしは、日がな一日ぶらぶらして過ごす。事件への関心が薄れた今でこそ出来ることだが、当初は家に籠もりっきりで、親戚の飛ばす嫌味と差し向かいで生活していたが、そんな生活にはうんざりしたので、家を飛び出た。友達の家を転々としていたが、当の友達やその親が来ることを迷惑がり、今は長澤の手配でアパートの狭い部屋を一つ用意してもらった。


 まだ新築の、白塗りの柱が綺麗なアパートで、壁が薄いのが気になるが、隣の住人はOL風の若い女の人で、他の住人も若い女性や若夫婦が多いようだった。警察署が近くにあり、防犯の意味でも結構住みやすい。長澤は苦手だったが、彼女の判断と手回しの良さは褒めてもいいと思う。


 一人でテレビも電気もつけず座っているだけで、母親の後を追えそうな気がしたが、やっぱりお腹が減るし見たいドラマは毎週同じ時間に映る。寒さで死ぬには日本はあったか過ぎ、凍死するほどの気候の土地に行くのは面倒で。低血圧で頭痛がしたら、このまま死んでやると思うけど、バファリンの半分は優しさで出来ていたりするのだ。


 結局、わたしは死ぬほどの勇気がなく、社会へ出るほどの強さがないのだ。
 そのことに苛々しながらも、泣きたいくらいに外の世界に憧れている。狭い六畳の四角い部屋の中から、わたしは生きている人を見て、羨望しているのだ。
 今のわたしは、何処へでも行こうと思えば行ける。旅行にだって、外国に移り住むことさえ可能なのだ。それだけのお金がわたしにはある。なのにそれを実行しないのは、わたしが半分死んでいるからだ。


 部屋と僅かな時間歩く外の世界。わたしは、今でも部屋から数キロ以上離れると足が震えて動かない。かといって部屋に閉じこもっていると耳鳴りがして、居ても立ってもいられない。


 どちらの世界にも属せず、ふらふらと立っている。それが、わたし。
 素っ気ない部屋の床に寝っ転がりながら、そんなことを考えた。こんなことを考え始めたのはいつからだろう……もう何度も繰り返していて、わたしはどういう生き方をしていたのか、それさえも忘れてしまったみたいだった。


 ふと、携帯が鳴った。どうやら寝てしまっていたらしい。着信を確かめると長澤だった。
 何だろう、今日会ったのに。思いながら出る。
「もしもし」
『突然、ごめんなさい』
「いえ……あの、何か?」
『見つかったの。ゆらちゃんの、お父さん』


「……え……」
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。脳裏に浮かんだのは、血まみれで、包丁を持って、立っていて、それで、幽鬼のような顔で、わたしを見て、笑って──殺そうとして。
 どっと冷や汗が流れた。血の気が引いて、ガタガタと身体が震えた。怖い怖い怖い───!!


『ゆらちゃん? ゆらちゃんっ!? 大丈夫? 返事をして!!』
「……ぁ……」
 長澤の声で、はっと気付いた。夕暮れの闇の中に居ることが怖くて、慌てて部屋の電気を付けた。明るい蛍光灯の光で、ようやく安堵した。それでも足の震えは、止まらなかったけれど。


『ゆらちゃん、明日病院に行きましょう』
 長澤が、断固とした口調でそう言った。
「……何でですか……?」
『ただでさえ、親のことでショックを受けてるでしょう? 言いたいことを言って……そう、ストレス発散だと思えばいいのよ』
 長澤はことさら明るい口調でそう言った。いつもなら、わたしは首を振って断る所だが、しばらくの沈黙の後、小さく頷いて行きます、と告げた。長澤はほっとしたように笑い、今から迎えに行って、彼女の家に泊まるかと聞いてきた。


「……お願いします」
 深くなる夜に、心底寒気を覚えた。昨日まで何ともなかったのが、嘘のように。





 車に乗って、三十分もしないうちに、目的の場所についた。
 戸賀谷総合病院。
 清潔な白い建物に、そんな名前が記されていた。ここには、事件が起こった数週間くらい通院していた。有名なカウンセラーがいるということで、何度か診察を受けたことがあったのだ。親戚の家に移ってからは通っていない──というより通わせて貰えなかった、といった方が正しいだろうか。今のアパートに移ってからは長澤がしつこく勧めてきたが、面倒だったから行かなかった。それに、一人では部屋を離れられなかった。足が震えて、歩けなかったからだ。


 一ヶ月とちょっとぶりに会う先生の顔は嬉しそうで、にこにこ笑っていた。通院をいきなり止めた事には全く触れなかった。
 この先生──氷見汀
【ひみなぎさ】はいつも笑顔を絶やさない。わたしがまだ足が震える、と告げると、そっかぁじゃあ今度先生と遊びに行きましょうか、と屈託無く誘う。

 三十路近くの氷見先生は、本当は美人なのだろうけど化粧が割合下手くそで、髪の毛も伸ばしっぱなしなのを軽く纏めているだけだ。もっときちんと格好をしたら誰もが振り向く美人になるだろうに、この先生は一向に気にせず、シャツにスラックスというラフな服装の上に白衣を羽織った姿で闊歩している。


 一度ちゃんとした格好したらどうですか、と言ったらからからと笑って、やぁね、お洒落で仕事してるわけじゃないんだし、と言った。
「それにね、面倒なんだー化粧。ゆらちゃんは化粧上手いよねぇー近頃の女子高生って凄いわ。私、教えて貰わないといけないね」
「先生、元が良いからいじくり甲斐ありそう」
「じゃあ今度弄ってよ」
 毎度こんな風に軽口を叩き合うだけの会話だけど、巧みに夜寝付きが悪いことなど、色んな事をすらすらと話してしまい、最後に少しだけ薬を処方してくれる。何でも医療関係者のクセに薬を信用してないとかで、保険かお守り代わり程度よ、と付け足す。


「……父が、見つかったみたいなんです」
「へぇ、お父さんが。会ったの?」
「……いえ。一応、自首したみたいなんですけど……会う気、あんまり無いし」
 言うと、氷見先生はなるほどーと相づちを打った。


「でもまぁ、良かったよ。自首してくれた事はね。良心があったって事だ」
「……良心、か」
 ぽそっと漏らす。良心があるなら、どうしてお母さんを殺したりしたのだろう。何故わたしを殺そうとしたのだろう。理性も良心も役に立たないわたしたちの存在って、一体、何なのだろう。──酷く、悲しかった。


「気が向いたら、会ってやりな」
「……うん」
 大きな窓の向こう、鳥が飛ぶ姿を見ながら、小さく頷いた。


 それじゃ、失礼します、と言って椅子から立ち上がると、じゃ、受付で薬貰ってねーという返答があった。
「あと、来週、ちゃんと来なよー。私、すっぴんで来るよー」
「忘れなかったら来るかも」
「そりゃないよ」
 ひらひら手を振る彼女に笑って、診察室を後にした。


 エレベーターで一階まで降り、病院のロビーのソファに座った長澤を見つけると、わたしはその横に腰を下ろした。
「どうだった?」
「いつもと同じです」
 そう返して、しばらく沈黙が落ちる。何とはなしに外の景色を眺めていると、無性に空が見たくなった。
「ちょっと、散歩行ってきていいですか?」
 長澤はにこりと笑っていってらっしゃい、と言った。





 ふらふらと特に目的地を定めず歩く。車椅子で移動する患者とすれ違いながら、空を見上げる。
 よく晴れた、透き通った青空が目に眩しい。ひらりと舞うのは白っぽい薄紅の花びらで、桜の花だと分かる。


 ふと、昨日の公園での事を思いだした。結局名前も知らない通りすがりだったが、妙に気が合いそうな人間だった。せめて名前くらいは聞いておくべきだったかなー、と考えながらベンチに座る。
 桜の木の下に設置されたベンチで、何となく頭上を意識して見てみたが、あの男がいるわけは無かった。


「……よくよく変なとこで会うな」
 聞き覚えのある声の調子に、わたしはぱっと真上から視線を戻した。
「あ、メロンパン男」
「黙れメロンパン女」
 わたしが言うと、即そんな言葉が返ってきた。


「……メロンパン女って、わたしの事?」
「お前以外に誰がいるよ」
「心外。わたしの名前はゆらさんです。覚えてください」
 あっそー、と言って、昨日と同じくわたしの隣に腰掛けた。


「ところでゆらさんとやら。メロンパン男ってのは俺の事ですかね?」
「あなた以外にメロンパン食いながら桜の木登ってる人間をわたしは知らない」
「失礼な。俺の名前は高原
【たかはる】だよ。覚えれ」
「りょーかーい」
 ふざけて敬礼したら、溜息を吐かれた。ぼーっと桜の木の間から見える空を見上げて、わたしは尋ねる。


「で、何してるの。ここは病院だよ」
「いやー別に変じゃないだろ。俺患者だから」
「……スパイか……」
「お前、間者と掛けてんのか。とんだ時代劇好きだな」
 呆れたような突っ込みが入り、わたしはくすりと笑う。


「で? ゆらさんは何をしてるのかな?」
「別に変じゃないっしょ。私もスパイだからね」
「ほぉー」
 男──高原は妙な相づちを打ち、手を頭の後ろで組む。


「ちょっとねー……躓いてるトコなの」


 言いながら、何を言ってるんだろう、わたしと自問する。無関係の人間。空気のように存在する。とても安堵出来る体感温度の様な感じ。


「家にも、学校にも行けなくてさ。友達もいないし電話もメールも無いし。何をしたいわけでもない。したいことがない。それでも走ってたらいきなり転けて、立ち上がれないの」
「うん」
「でさ、親戚はヤな奴だし。弁護士は口うるさいし。桜見てたらメロンパンは降るし最悪なの」
「まぁな」
「お母さんは居なくなったし。って別にお母さんが好きだって、思ったことなかったけど。お母さんは勉強しろ言うし、進路の事にも煩いくらい首突っ込んでさ。いなくなれ! とか思ってたけど本当に居ないとなると悲しいし。お父さんはわたしとあんま喋ったことないし髪の毛薄いし腹出てるし、気が弱くて借金作ってロクでもないし、挙げ句犯罪者だし」
 一息でそこまで言って、息を吐く。


「でもわたし──幸せだったの」
 言いながら、そうだったなと思う。幸せなんて言葉、馬鹿みたいだと思っていた。そんな言葉、一生口にしない。そんな風に思っていたのに。それなのに、それしか言い様が無くて。


 型にはまった、どこにでもある普通の家庭。学校に行って馬鹿話して、何か刺激的な事が起こればいいのにねぇなんて、同じ事の繰り返しに飽きていたけど、崩れようのない確かな現実がそこにはある。
 その現実こそが贅沢だったと、今ならそう思える。一日一日を大切に生きていけるように思う。
 頬に、何かが伝った。何か分からなかったけど、暖かい──


「俺も似たようなもんだな」
 そう言った高原の表情は、とても透き通った笑顔をしていた。今日の空の様に、何もかもを包み込むようなやさしい色の笑顔だった。


「俺も、躓いてる。けど立ち上がってやるって、今なら思う」
「強いなぁー」
 自分でもそれと分かるほど、弱々しい口調で呟いた。すると、彼はすっと目を細めて笑みを深くする。太陽の光が眩しかったのかもしれない。


「何、逆境に陥ったら否応なく強くなれる。お前も、なれる」
 力強い言葉だと思った。きっと、この言葉を言える彼は、わたしもぶつかっている壁に、全力で乗り切ったのだろう。そんな気がする。


「チャンスだと思えよ」
 言われて、息を吸った。次の言葉を口にするのは、勇気が要った。けれど、わたしも転びっぱなしではいけない。彼に負けるのも悔しい。
「……努力する」
「よし」
 彼は嬉しそうにいって、立ち上がった。


「まぁ、どうしようもないって時は、手を貸してやる」
 差し出された手を見る。骨張ってて、大人の手だなぁと思った。


「頼むよ、先輩」
 手を取って、わたしもベンチから立ち上がった。





 翌日、わたしは長澤に連絡を取り、先日持ちかけられた学校の話を検討したいと言った。
 その学校は、わたしのように特殊な事情で学校に通えなくなった生徒や、高校の卒業資格が欲しいという社会人なども通う学校で、場所はアパートから電車を乗り継いで二時間ほどかかる。
 案外近い場所にあることに驚き、前にちゃんと話を聞かなかったことを少し後悔した。


 わたしはそこに二年通い、無事卒業を果たして大学にまで進学した。
 法学部で、将来は弁護士になれたら良いと思う。長澤には色々世話になったし、彼女のような弁護士になれたらいいなぁというのが今の夢。
 今にして思えば、長澤響子はわたしの母に似ている。


 そんなわたしも気がつけば今年で二十一。不思議なモンだ。成人なんて遙か先の出来事のような気がしていたのに。
 アパートの近くの公園。桜が綺麗な公園。今年も立派に咲いて、散る姿もとても綺麗だ。
 大きく枝が広がって、抱きすくめられるようにしてあるベンチはわたしのお気に入りの場所だ。


「今年はメロンパン無しで花見ですか、高原君」
「メロンパンの代わりに、ゆらさんがいるようなので」
 やっぱり枝に腰掛けて、一番花に近い場所で花見を楽しむ変わり者は、そんな台詞を返してきた。


「わたしはたった百三十円の価値しかないのか」
「いやいや、人間の価値を通貨に置き換えちゃ駄目だね。幸福感に換算しなきゃ」
「わかるかそんな抽象的なもん」
 笑いながら言って、ベンチに腰掛ける。古びてはげ落ちていた塗料も新しく塗られ、深い緑が木漏れ日に照らされていた。


 高原──結城高原
【ゆうきたかはる】はやはり同様にわたしの隣に腰掛ける。
 絶対にわたしより年上だと思っていた彼は、その実わたしより一つ下で、美大に通っている。彼もまた、わたしと似たような経験をしたらしい。彼は詳しく語ろうとはしなかったし、わたしも深く聞く気はなかった。きっといつかは話してくれるのだと思う。乗り越えた証の、笑い話として。
 受け入れの態勢は万全だからわたしは待つ。


「まぁ、つまりさー」
 太陽の光に、眩しそうに目を細めた。わたしを救ってくれた、透明な笑顔。


「ゆらさんが居て、幸せってことだな」
「うわー馬鹿くせー」
「……お前、最悪だな」





 今年の桜前線は、早めに北上しているというニュースを見た。

































【幸福論。】Date 2004.11.19

久々の短編ですー。雑記に「猫の眼」という掌編を書いたのは最近の事なんですが、新作の短編は実に一年ぶりみたいで……;
短編はつい最近改訂とかしたので、気分だけは書いてるような感じだったんですけど。

私の話って、現代物でもよく幽霊とか人外のモノが出たり、場所が変な所だったりとファンタジー要素が大きかったんですけど(一番最近の「猫の眼」もそうだし)、今回の「幸福論。」はそれが一切、ありません。
不思議なくらいありません。
唯一挙げるとすれば、メロンパン落下、くらいか?
これまで御調は頭上からメロンパン落下なんて目には遭ってないのですが。
あったよーという方、是非掲示板にカキコを(笑
もちろん棚からぼた餅(マジで)の方もお待ちしてます(笑

で、話なんですが。
よしもとばなな的だとの評を貰いました。純文学にあまり興味はないのですけど、やはり受ける授業の影響か、かなり起伏の少ない低テンション型の話です。
これを読んだ後に「やる気のない勇者〜」なんぞを見るとまるで別人です。別の奴が書いたのかと訊かれそうです。
……俺の中のもう一人の俺が書いたのさ。
とでも言おうかなぁ(ぇ

それはともかく、前の「玻璃塚」が全く救い様無し!な話だったのに対し、今回はまだ救いのある話かなーと思います。
フィクションとは言え、いきなり殺人犯の娘もどうよ、と思うんですけど……それくらいしかネタ的に思いつかず。警察署に少しだけ世話になったくらいの知識しかなくて、全くリアリティという点には欠けると思います。
でも別に殺人とか動機とかそういうのが主題の話じゃないから良いかなぁと。
この話を書きたいと思ったのは、そうだなー多分自分の願望とかもあるんじゃないかなぁと思います。
相談とか苦手だから、あんま人に悩みとか話すこと無いんですけど、多分悩みを話すって事は別に解決法が欲しいだけじゃなくて、訊いて貰えるだけで救いになるからじゃないかと思うわけですよ。
それと、誰かに大丈夫だっていう一言を言って欲しいから。
ゆらという主人公の心情は形は違えど、私も感じた事・感じている事と同じです。
これを読んで、ゆらに共感して下さったら嬉しいなぁと思う次第です。

タイトルは始め「たまゆら」だったんですが、あまりに内容にそぐわないので「幸福論。」に変更。
最後の方で高原氏が「幸福感に換算」とか言ってるので、「幸福感」とどっちにしようかなーと迷いつつ、やっぱり彼らなりの幸福の条件・理由があるかなと思って「幸福論。」にしました。
某椎名林檎女史の歌のタイトルと同じですが、多分歌詞内容とは違うだろうと思われます。
ちなみに「。」は必須です。何となく(ぇ

楽園さんに登録させて貰っています。宜しければ一票よろしくお願いします。