|
れ ここ、古物屋『翆華堂』は、理哉の祖父・栄達の趣味の延長上で始めた店だ。 しかし当の主人には商売の気はなく、売り物はないに等しい。稀に入ってくる客にも、これは売り物でははく自ら収集したものを見せびらかすためのコレクションだと言い張る。当然、お金を落としてくれる客がいないので、儲けはない。 客以外にやってくるのは栄達の茶飲み友達くらいなもので、どこぞの何とかの茶碗が良いだの、誰それの掛け軸がどうのと、理哉には到底理解出来ない会話に花を咲かせては帰って行く。そして偶に店を空け、仕入れと称して旅に出る。 それも結局自分自身の趣味の為で、一体どこから湧き出るものか知れないが、栄達の金の使い道は全て古物の収集に宛がわれるのである。 古物の収集というと、目利きで高価な骨董品を買い集めるというイメージが付きまとうのだが、栄達の場合あまり値段は関係ない。その気になれば、どこそこで拾ってきた単なる石でさえ、彼のお気に入りの品となる可能性があった。 翆華堂は、一階は店舗で、二階は栄達の生活空間となっているのだが、祖父が出かけている間は、この二階にある六畳間に寝泊まりしている。染みの浮き出た土壁の部屋にあるものは全て栄達の『宝物』で、普通の人間からすれば塵のようなものでも、彼の手にかかれば何となくそれらしいように見えるから不思議だ。 栄達は嫌々ながらも家業を継ぎ、息子──つまり理哉の父親に譲ると同時に、この翆華堂の主となった。もう何十年とこのことを考えていたらしく、引き留める間もなくさっさと隠居してしまった。引退にはまだ早いと親戚中に非難されてもどこ吹く風、それでも何年か粘ったものの栄達の気が変わることは、ついぞ無かった。 これは理哉が生まれる前の話で、現在ではもう皆に諦められている。それで栄達は、誰からも文句を言われることなく、好きな事に残りの人生を費やしているのだ。栄達曰く、『所謂、セカンドライフって奴じゃ』。昨今のお年寄りは難しい単語を使うものだ、と理哉が揶揄すると、老いとると馬鹿にしとったら、えらい目見るぞ、と栄達は笑って出て行った。また五日ほど『仕入れ』に行くらしい。 滅多に掛かってこない電話口で、かくかくしかじかで留守番頼む、と一方的に告げて行くのだから困る。人間、八十ともなると若者の将来などどうでも良くなるらしく、こちらの都合などお構いなしだ。 放っておいてやろうかとも思うのだが、価値なしの石ころと、何百万とする壺が隣同士に置かれているような不用心な店である。バイトでも雇えば良いのに、と半ば呆れながら、結局は店番を引き受けている。 することは、特にない。時々店の掃除をし、偶に世間話をしにやってくる客人の相手をする。しかし、老人達が年若い理哉を話し相手に所望するはずもなく、栄達が出かけていることを告げるとあっさりと帰ってしまうのが常だった──この、遠藤龍三を除いては。 「これは何ですか?」 栄達と同じくセカンドライフを満喫している龍三は、紺鼠の長着に中羽織といった出で立ちで、八十を超えても矍鑠としていて背筋もぴんと伸びている。こうして目の前に座っているだけでも年を重ねた者の風格と、実業家としての目の鋭さが際立つ。 実際数年前まで、流通業で実績を伸ばしてきた遠藤グループを、第一線で引っ張ってきた人物である。会長なんぞ隠居のようなものだ、などと嘯き、実質的な経営権は息子に譲ってはいるものの、その影響力は未だに強く残っていると聞く。 その龍三の骨董収集趣味は、その筋の者なら誰でも知るところである。いつの間に知り合ったものか、栄達は顔が広くその人脈は理哉にも把握出来ていない。 彼は畳紙の紐を解き、その中身を露わにした。根拠は無かったが、地味な色の男物の着物が出てくるかと思っていた理哉は、美しい撫子色を見つけて思わず龍三を見つめた。 「これは引き取れません」 「調べもせんで勝手なことを」 しかし、理哉とて龍三と何年か付き合っている。その性格と気性を、片鱗ではあるが理解しているつもりだ。 「『翆華堂』は呉服の扱いがありませんので」 だが、この翆華堂、及び栄達との付き合いが長い龍三が、興味のあるものなら何でも集めてしまう栄達の性癖を知らぬわけがない。現に店にも何点か着物が置いてある。奥に隠れていて、ここからは見えないのだけである。 理哉の返答に、龍三はふんと軽く鼻を鳴らし、そのまま睨み合うこと数秒。最初に緊張の糸を解いたのは、龍三の方だった。 「もっとましな言い訳をせんか」 それを見て、理哉もようやく息を吐く。この老人の相手は何かと気を張る。時折こちらを試すような真似をして、理哉をからかっているのだ。 若いもんを虐めるのは、老後の数少ない楽しみでのう、などと初対面にも関わらず平気で言い放ち、挙げ句の果てには出した茶にまで文句を付けてくる。栄達といい、龍三といい、癖のある老人ばかりが、翆華堂には寄ってくる。 そのお陰か、灰汁の強い客の相手と、茶の淹れ方だけは人並み以上になってしまった。この二点が、一体いつ、何の役に立つのか理哉にも不明である。 「……まずまずだの」 弄れる口実が無くなった龍三は、つまらんの、と至極残念な様子で肩を落とし、もう一度茶に口をつけた。 「何の理由があってこんなものを、うちに?」 「これはのう、由緒正しいもんで、狐が嫁入りの際に持ってきた嫁入り道具の一つで……」 「儂は真剣だとも。黙って聞かんか」 「狐の嫁入り、というのは正確ではないの。狐憑きの家の娘が嫁入りをした時に、と言うのが正解だの」 現代医療でそれは精神的ストレス、などといった言葉に集約され、狐の仕業ではなく個人の精神、もしくは環境によって発露する病の一種である、という一般論に達するのである。 しかし、栄達や龍三はある程度の『不思議』を信じている──というより、そういうことがあっても可笑しくない、と容認しているような節がある。それはもしかすると育った時代の違いなのかもしれない。 いつだったか、妖や不思議を信じなくなってしまったのには、高度経済成長における生活様式の一変、特に電力の供給が昼夜を問わず行われていることが起因している、と聞いたことがある。どこもかしこも照らされて、闇を恐れなくなった、と。 そんなもんか、と思う程度の認識しか理哉にはないが、昔の人間には──というと必ず嫌な顔をするが──また違う捉え方があるのかもしれない。 「そう。田舎じゃ狐憑きの嫁は富をもたらす、言うてな。嫁げんかったのも多かった」 「富と一緒に狐も付いてくる。狐は子どもを産んでその家に居着いてしまう。栄えるのは確かじゃが、狐を祀らなければ家が傾く」 「妬み、じゃよ」 「目には見えぬ厄介な感情じゃ。嫉妬に応じて、富をもたらす──というより、周りから吸い上げる。そういう性質のもんじゃ。良いことなんぞあるまい」 「無理です。こんな験の悪い着物は置いておけません」 「眼が良いと栄達が言うておったが、そういう事か」 「引き取るとは言ってませんが?」 あの人にもう一度、会えるのならばこんなものは痛みの内に入らない。本当に痛いのは、辛いのは、こうして引き離されてしまうことだ。一刻でも早く辿りつくために獣道のような道を走る。足には細かな傷が沢山できて、血も滲んでいるかもしれない。だが、心が傷つき血を流すよりも、遙かに安い代償だ。 どうして、どうしてこんなことに。 どうして、どうして私たちはただ、穏やかに暮らしたかっただけなのに。 どうして──? 「っ!」 指先で、地面を削る。何かを強く掴むような仕草だったが、女が掴んだのは湿り気のある土だけで、手のひらでほろりと崩れ、零れていく。 ──こうして手にしたものを、私は幾つ失っていくのだろう? その考えは、殊更女の心を締め付けた。手に入れたものを、いつか失ってしまうのなら、いっそのことこのまま諦められたら、どんなにか良いだろう。 忘れてしまえば、楽になれると分かっていても、それが自分の望みでないことは明らかで。故に女はまた立ち上がる。絶望と切望が女を駆り立てる。 土ばかりの獣道を抜け、舗装された堀を走る。 端から見れば異様な光景だった。愛しい人と引き離された悲しみの余り、鬼へと変貌する鬼女のように。 たった一つ部屋として機能している六畳間だが、物が溢れていて手狭になってしまっている。元々栄達一人が暮らしていたのでこれで事足りていたのだ。 射るような光は目に染みるほどで、溜まらず理哉は寝返りをうった。 唐突にやって来ては、預かれと一方的に告げて置いていった龍三の着物だが、『どうせじゃし、出しておけ』という旅先からの栄達の言を受けて、とりあえず衣桁にかけてある。処理に困った理哉は、取り敢えず栄達に連絡を取ったのだ。 栄達が最後まで固持していた携帯だが、どうしてもと頭を下げられて遂に息子夫婦に持たされたのである。あいつらは人を老人扱いしよる、と憤慨していたが結構頻繁に利用しているようである。持ったからには使わないと勿体ない、というのが言い分だったが、理哉には子供じみた言い訳にしか聞こえなかった。 広げられた着物は裾にかけて撫子色から月色へと移り、小柄な桜の模様は桜貝色。ともすれば白くも見える控えめなものながら、刷り込まれた金箔が華やかさを添えている。どちらかと言えば可愛らしいという形容が似合う品である。 理哉は目利きではなかったし、興味のある方でもないが、なまじ見慣れているせいか、良い品物であることは何となく分かった。箪笥などに隠してしまうより使ってやった方が着物のためになるような気がするが──などと考えてから、じいちゃんが言いそうなことだ、と嘆息した。 しかしどれだけ良い物かは知らないがこれのお陰で理哉の夢見は最悪だった。 昔から夢はよく見る方だった。 子供の頃は頻繁に両親に夢の話をしていたが、彼らの反応はどちらかと言えば戸惑いの色が強かった。一度や二度なら偶然かもしれないが、ことある毎に過去を言い当てる理哉に、はきとは口にされたことはないが、気味の悪いものを感じていたのだろう。 理哉もそれを感じ取り、だんだんと夢のことに触れるのを避けるようになった。現実と酷似する夢など、誰にも言わない方が良いのだ、と心に決めたのはもう何年も前のこと。それ以降、中学、高校と進学するにつれ、夢自体も見ることが減っていった。 子供は感受性が強いと言うし、一時的なものだったのだろうと自分自身で納得していたのだが、この翆華堂に来てから事情が変わってしまった──また夢を見るようになったのだ。しかも、以前よりも鮮明で、現実と区別するのが困難なほどリアルで生々しい夢だ。時にはその場所の匂い、人の息づかいまで感じるほどに。 何が原因かは、考えるまでもない。翆華堂に集まる古物、その物自体が持つ記憶──というには違和感があるが、そうとしか言いようがない──、そしてその物に思い入れのある人間の思念だ。人の感情を、夢の中でとは言え、直裁的に感じることは、辛い。特に、今日のような夢は。 この体質で被害を被る理哉は、自然と嫌な予感のする物と、しない物の見分ける勘のようなものを身につけていったのである。幸か不幸か、それがまた、栄達の利害と一致してしまったのだ。 もう一度深く溜息を吐いて、先程の夢の内容を反芻する。女が駆けていた堀の風景は、どこかで見たことがあるような気がした。ちらりと着物を一瞥すると、心なしか桜の花が色褪せて見えた。 「いいえ。とんでもない。わざわざ来て貰ってありがとうね」 是非に見て貰いたいものがあると言った少年は古物屋『翆華堂』の者で、片桐理哉という名を名乗った。少年の祖父が個人経営している店のようで、特に押し売りの気配もない。 この年での一人暮らしは何かと物騒だと人は言うが、こちらを欺こうとする人間のあしらいにも、見分けることにも慣れている。丁寧だがどこかたどたどしく、物慣れてない風の少年の言葉は真摯で、嘘を言っているようには聞こえなかった。 「失礼だとは分かっているんですが、少しだけこの家のことをお聞きしました」 笑われた理由に見当がつかなかったのか、少年は数度瞬いて小さく首を傾げた。鳴は失礼を詫びて、相対する少年に向かって小さく笑ってみせた。 「そうです」 「呉葉は、うちの母の名前ですけど……」 「このお着物、見たことがあります。姉が着ていたものです」 駆け落ち同然でついて行くと誓った相手に別の縁談が持ち上がり、その話自体がなくなってしまった。既にその男との間の子を宿してしていた呉葉は悲嘆に暮れ、仕立てたばかりのこの着物を纏い、心中を図ったそうだ。 しかし、幸か不幸かその現場を発見され、呉葉は助かった。その子供というのが鳴の姉で、後に見合いで結婚した夫の間に授かったのが鳴である。 その姉は呉葉に似ていたのかもしれない。この着物を纏い、誰とも知れぬ男と手を取り合い、身一つで出て行ったのだ。 つい、懐かしさにかまかけ、しかも少年の相槌が上手いものだから、そんなことをとつとつと語ってしまった。少年は妙に納得した顔をしてから、実は、と切り出す。 「店に持ち込まれた品物です。狐憑きのお家のものだとお聞きして、少し気になったんです」 「……あの、失礼ですけど、お姉さんは?」 「うちの先祖の誰それがお狐さんをお嫁にして、それから沢山の事業に成功したそうですけど、曾祖母の世代には既に家が傾くばかりで、そんな羽振りのええことなんか、全くありませんでした。それでも狐憑きいうて、お嫁には行かれへんかったんです。姉もまた駆け落ちみたいに家出て行って。元気でいてくれたらええと思うてたんですが、これが今うちの元に来てる、言うことはもう……」 「ところで、お姉さんの父親の名前をご存知ですか?」 「確か……遠藤と言ったかしら。遠藤正三……とか、そう、そんな名前やったと思います」 答えてから、鳴は再び着物に目をやった。 ──じゃあね。鳴、うちは行くから。 まるでちょっと近くへ行ってきます、というくらいの軽さで告げ、まだ十四だった鳴の頭を撫でた。 ああ、そう言えば、あの日は確か春の盛りだった。桜が雨の如く降っていた。輝くばかりに美しい姉の横顔、凛と見上げたその姿を、鳴は鮮明に覚えている。 不意に、涙が零れた。もう姉の声を聞くことはないのだと思うと無性に悲しかった。 肩を揺すられて目覚めてみると、見覚えのある祖母の姿があった。状況が掴めずに、理哉は思わずぽかんと祖母を見上げた。 「ばあちゃん?」 「懐かしいなぁ、このお着物」 「綺麗な色やろ? お気に入りやってん。でももう若ないし、理哉のお嫁さんになる人にあげてな」 祖母は、一年前に亡くなったのだ── 「ちゃんと手入れしといてぇな、って頼んだのにちぃとも聞いてはらへんのやね」 「ちょ、それ! 預かってるだけ……」 「ええ天気やね」 「……どこが?」 降りしきる小雨の中に舞い散る桜貝色の花びら。金の粒子がそれを華やかに彩って、きらきらと輝いた。花びらは名残惜しそうに理哉の頬を撫でて、消えた。慌てて足元に視線をやったが花びらは見あたらない。本物の桜ではないことは分かったが、一体どこから? 「来年も、綺麗に咲いたらええねぇ」 こんな天気を、なんていうんだっけ、と考えていたら、だんだんと瞼が重くなってきた。さぁっと、雨の音が耳元で聞こえてくる。 その音を聞きながら、ああ、春が終わるなと思った。 「帰ってきてますよ。あと、あの着物、やっぱり買い取れません」 「あれ、うちのものでしょう」 あの夢に出て来た場所に見覚えがあると思ったら、近所の川沿いだった。春には桜がこぼれんばかりに咲いて、この辺では有名な桜の名所だ。 あとはその辺のお年寄りを捕まえては、生まれ育った街のことを調べているだのと適当なことを並べて、狐憑きのことを聞いた。 そうやってお年寄り情報ネットワークで最終的に辿りついたのが安来鳴、という老女のところだった、というわけだ。 その鳴婆さんに父親の名前を聞いたのは、ふとした思いつきでしかなかったが、遠藤正三という名を調べてみると、直ぐに分かった。何を隠そう、目の前に立つ遠藤龍三の父にして、遠藤グループの創始者だというから世間は狭い。 どうして着物が自分の家のものだと分かったか、というと何のことはない。栄達が帰ってくるなり着物を見て、ばあさんの着物じゃないか、と口走ったからである。 ちなみに、祖母を夢を見たあと、着物を確かめてみると桜模様が消えて無くなっていた。それがなくても十分に華やかな代物ではあるが、どことなく淋しい感がするのは否めない。 着物の桜がなくなっていることも問い詰められたが、理哉には答えようもない。答えようもないので、妖怪にでもなったのではないか、所謂付喪神ってやつ、などと適当なことを返した。 すると栄達は、ぱっと夢から覚めたように瞬き、それだったら来年も咲くかもしれんな、と本気なのか冗談なのか良く分からない口調で頷いていた。 ──もしかすると、全て知っていて、龍三はこの着物を持ち込んだのではないだろうか。 「それより、茶を出さんか、儂は客じゃぞ」 「龍三、来たか」 理哉はそれを聞き流しながら、奥にしつらえてある台所に引っ込み、茶の用意を始めた。 二人が茶に口をつけて落ち着くと、しばらくその余韻を楽しむかのような沈黙が落ちる。 「お前の孫を婿にくれんか?」 「……何やっとるんじゃ」 「本気で言ってるんですかそれ」 「だからこそ、ついてしまう前にそこの孫にやってしまいたい」 「俺の了承もなく勝手に見合い話なんか持ち込まないで下さい」 「とにかく! そういうことは考えてませんから。お断りします」 「……さっきの話は、本気か?」 「おおそうじゃ」 「そりゃあ良い。花を散る姿を見ながら呑むのもまた、粋なもんじゃ」 そして、昨日のような天気を、狐の嫁入りというのだ、ということをいきなり思い出した。 そしてその美しい花に隠された、悲しみの色を溶かすように、毎年雨の降る日に桜は散った。 |