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 何の変哲もない山吹色の風呂敷から出て来たのは畳紙で、御誂と記されたそれは新しいものに見えた。確かめるまでもなく着物であろうと推測できたが、それを差し出された理哉は僅かに眉を顰めた。

 ここ、古物屋『翆華堂』は、理哉の祖父・栄達の趣味の延長上で始めた店だ。
 道と道に挟まれた三角州のような場所にこぢんまりと佇む二階建ての建物で、築三十年は軽く越えているだろう。赤茶けた煉瓦造りの、なかなかに洒落た外見で、喫茶店のような趣もある。

 しかし当の主人には商売の気はなく、売り物はないに等しい。稀に入ってくる客にも、これは売り物でははく自ら収集したものを見せびらかすためのコレクションだと言い張る。当然、お金を落としてくれる客がいないので、儲けはない。

 客以外にやってくるのは栄達の茶飲み友達くらいなもので、どこぞの何とかの茶碗が良いだの、誰それの掛け軸がどうのと、理哉には到底理解出来ない会話に花を咲かせては帰って行く。そして偶に店を空け、仕入れと称して旅に出る。

 それも結局自分自身の趣味の為で、一体どこから湧き出るものか知れないが、栄達の金の使い道は全て古物の収集に宛がわれるのである。

 古物の収集というと、目利きで高価な骨董品を買い集めるというイメージが付きまとうのだが、栄達の場合あまり値段は関係ない。その気になれば、どこそこで拾ってきた単なる石でさえ、彼のお気に入りの品となる可能性があった。

 翆華堂は、一階は店舗で、二階は栄達の生活空間となっているのだが、祖父が出かけている間は、この二階にある六畳間に寝泊まりしている。染みの浮き出た土壁の部屋にあるものは全て栄達の『宝物』で、普通の人間からすれば塵のようなものでも、彼の手にかかれば何となくそれらしいように見えるから不思議だ。

 栄達は嫌々ながらも家業を継ぎ、息子──つまり理哉の父親に譲ると同時に、この翆華堂の主となった。もう何十年とこのことを考えていたらしく、引き留める間もなくさっさと隠居してしまった。引退にはまだ早いと親戚中に非難されてもどこ吹く風、それでも何年か粘ったものの栄達の気が変わることは、ついぞ無かった。

 これは理哉が生まれる前の話で、現在ではもう皆に諦められている。それで栄達は、誰からも文句を言われることなく、好きな事に残りの人生を費やしているのだ。栄達曰く、『所謂、セカンドライフって奴じゃ』。昨今のお年寄りは難しい単語を使うものだ、と理哉が揶揄すると、老いとると馬鹿にしとったら、えらい目見るぞ、と栄達は笑って出て行った。また五日ほど『仕入れ』に行くらしい。

 滅多に掛かってこない電話口で、かくかくしかじかで留守番頼む、と一方的に告げて行くのだから困る。人間、八十ともなると若者の将来などどうでも良くなるらしく、こちらの都合などお構いなしだ。

 放っておいてやろうかとも思うのだが、価値なしの石ころと、何百万とする壺が隣同士に置かれているような不用心な店である。バイトでも雇えば良いのに、と半ば呆れながら、結局は店番を引き受けている。

 することは、特にない。時々店の掃除をし、偶に世間話をしにやってくる客人の相手をする。しかし、老人達が年若い理哉を話し相手に所望するはずもなく、栄達が出かけていることを告げるとあっさりと帰ってしまうのが常だった──この、遠藤龍三を除いては。

「これは何ですか?」
「まぁ、そう急くな」
 前振りも何もなく、いきなり着物を差し出してきた男は祖父と同い年、翆華堂の常連客の一人であった。

 栄達と同じくセカンドライフを満喫している龍三は、紺鼠の長着に中羽織といった出で立ちで、八十を超えても矍鑠としていて背筋もぴんと伸びている。こうして目の前に座っているだけでも年を重ねた者の風格と、実業家としての目の鋭さが際立つ。

 実際数年前まで、流通業で実績を伸ばしてきた遠藤グループを、第一線で引っ張ってきた人物である。会長なんぞ隠居のようなものだ、などと嘯き、実質的な経営権は息子に譲ってはいるものの、その影響力は未だに強く残っていると聞く。

 その龍三の骨董収集趣味は、その筋の者なら誰でも知るところである。いつの間に知り合ったものか、栄達は顔が広くその人脈は理哉にも把握出来ていない。

 彼は畳紙の紐を解き、その中身を露わにした。根拠は無かったが、地味な色の男物の着物が出てくるかと思っていた理哉は、美しい撫子色を見つけて思わず龍三を見つめた。
 金箔刷りされた、桜模様の着物は明らかに若い趣味の、女物である。

「これは引き取れません」
 龍三が何かを言い出す前に、きっぱりと理哉は断りの言葉を口にした。それを受けて、龍三の眉がぴくりと跳ね上がる。

「調べもせんで勝手なことを」
 目の前にいるだけで他を圧倒しそうな老人の言葉は、ただでさえ人を萎縮させる。その中にじわりと滲み出る不快の表情にたじろがない者は、まずいない。人生経験の浅い学生が、この一言だけで黙り込んだとしても誰に責められることはないだろう。

 しかし、理哉とて龍三と何年か付き合っている。その性格と気性を、片鱗ではあるが理解しているつもりだ。
 言葉が返ってくると唇を引き結んで、すっと背筋を伸ばした。例え虚勢にしても、なかなか出来る事ではない。龍三が僅かに眼を細めてその様子を見遣る。
 射抜くような視線を受けた理哉は、堅い表情で慎重に切り出した。

「『翆華堂』は呉服の扱いがありませんので」
 さらりと告げた台詞は、殊更力を入れているようには、見えなかった。

 だが、この翆華堂、及び栄達との付き合いが長い龍三が、興味のあるものなら何でも集めてしまう栄達の性癖を知らぬわけがない。現に店にも何点か着物が置いてある。奥に隠れていて、ここからは見えないのだけである。

 理哉の返答に、龍三はふんと軽く鼻を鳴らし、そのまま睨み合うこと数秒。最初に緊張の糸を解いたのは、龍三の方だった。

「もっとましな言い訳をせんか」
 とぞんざいな口調ながらも暖かみのある声でそう言って、何かを思い出したらしい龍三は呵々と笑った。

 それを見て、理哉もようやく息を吐く。この老人の相手は何かと気を張る。時折こちらを試すような真似をして、理哉をからかっているのだ。

 若いもんを虐めるのは、老後の数少ない楽しみでのう、などと初対面にも関わらず平気で言い放ち、挙げ句の果てには出した茶にまで文句を付けてくる。栄達といい、龍三といい、癖のある老人ばかりが、翆華堂には寄ってくる。

 そのお陰か、灰汁の強い客の相手と、茶の淹れ方だけは人並み以上になってしまった。この二点が、一体いつ、何の役に立つのか理哉にも不明である。
 頭痛にも似た重みに小さく溜息を吐くと、龍三は薄い陶器の湯飲みに口を付けていた。

「……まずまずだの」
 何故か苦い顔をして呟く龍三に、理哉は内心勝った、と呟く。最初に出した時に言われた台詞は、こんな不味いもんを客に出すとは良い度胸じゃの、だった。

 弄れる口実が無くなった龍三は、つまらんの、と至極残念な様子で肩を落とし、もう一度茶に口をつけた。

「何の理由があってこんなものを、うちに?」
 龍三が一息ついたのを見計らって理哉が問うと、彼はつとその着物に目を落とした。その目の色に懐かしそうな色が混じっていた、ように見えた。一瞬の事なので、自信はなかったが。

「これはのう、由緒正しいもんで、狐が嫁入りの際に持ってきた嫁入り道具の一つで……」
「あの」
 龍三が話し出した『理由』に、理哉は割って入った。
「真剣に話してます?」
 狐がどうとか聞こえたのだが、聞き間違いだったのだろうか。それとも龍三の虐めの続きか。我ながら卑屈な考え方だったが、この老人ならば有り得ないことではない。

「儂は真剣だとも。黙って聞かんか」
「……すみません」
 どうやら、聞き間違いでも虐めの一環でもないようである。理哉の態度に龍三は、顔を顰めてはっきりと不快の色を見せた。どこか飄々とした老人が、感情を露わにすることは実は珍しい。そうと気付いていなければ、先程のやり取りで、ああも強気には出られない。

「狐の嫁入り、というのは正確ではないの。狐憑きの家の娘が嫁入りをした時に、と言うのが正解だの」
「狐憑き……ですか」
 無論、この現代に生きる理哉は、狐の精の存在を信じていない。当然、狐憑きというのも言葉で知っていても、理解はできない。

 現代医療でそれは精神的ストレス、などといった言葉に集約され、狐の仕業ではなく個人の精神、もしくは環境によって発露する病の一種である、という一般論に達するのである。

 しかし、栄達や龍三はある程度の『不思議』を信じている──というより、そういうことがあっても可笑しくない、と容認しているような節がある。それはもしかすると育った時代の違いなのかもしれない。

 いつだったか、妖や不思議を信じなくなってしまったのには、高度経済成長における生活様式の一変、特に電力の供給が昼夜を問わず行われていることが起因している、と聞いたことがある。どこもかしこも照らされて、闇を恐れなくなった、と。

 そんなもんか、と思う程度の認識しか理哉にはないが、昔の人間には──というと必ず嫌な顔をするが──また違う捉え方があるのかもしれない。

「そう。田舎じゃ狐憑きの嫁は富をもたらす、言うてな。嫁げんかったのも多かった」
「何故ですか?」
 富をもたらすのであれば、寧ろ歓迎されそうな話である。座敷わらしも居着くと商売繁盛すると聞くし、その類ではないかと思ったのだが。

「富と一緒に狐も付いてくる。狐は子どもを産んでその家に居着いてしまう。栄えるのは確かじゃが、狐を祀らなければ家が傾く」
 淡々とした口調で説明した龍三に向かって、理哉は首を傾げた。
「運、みたいなものですか?」
 狐というのはある種の象徴的な意味だろうか、と思いながら問うと、龍三はくつくつと笑う。

「妬み、じゃよ」
 その言葉を聞いて、理哉は再びちらりと着物を一瞥する。

「目には見えぬ厄介な感情じゃ。嫉妬に応じて、富をもたらす──というより、周りから吸い上げる。そういう性質のもんじゃ。良いことなんぞあるまい」
「だから、この着物を?」
「どうじゃ、栄達の喜びそうなもんじゃろ」
 確かに、祖父の性格からして欲しがることは間違いない。珍しい逸話のある品物ならば一も二もなく引き取ってしまうのだ。

「無理です。こんな験の悪い着物は置いておけません」
 断固とした口調でそう拒否すると、龍三は逆に興味を惹かれたようだった。

「眼が良いと栄達が言うておったが、そういう事か」
「は?」
 きょとんと見返す理哉に、龍三は一人納得して頷くのみである。残りの茶を一息で呷ると、失礼するぞとさっさと帰り支度を始めた。

「引き取るとは言ってませんが?」
 咄嗟に引き留めると、龍三はゆっくりと振り向いた。
「まぁ、栄達が帰って来たら、見せてやれ。それからでも、良いじゃろ」
 腹の底の読めない笑顔でそう言って、翆華堂を後にした。











 早く行かなければならない、と思い詰めた様子で女は走る。
 全き闇に閉ざされている夜、何も見えないはずなのにしっかりとした足取りで駆けていた。途中、焦りのために躓いたが、痛みは感じなかった。

 あの人にもう一度、会えるのならばこんなものは痛みの内に入らない。本当に痛いのは、辛いのは、こうして引き離されてしまうことだ。一刻でも早く辿りつくために獣道のような道を走る。足には細かな傷が沢山できて、血も滲んでいるかもしれない。だが、心が傷つき血を流すよりも、遙かに安い代償だ。

 どうして、どうしてこんなことに。
 駆けながら、女は思う。

 どうして、どうして私たちはただ、穏やかに暮らしたかっただけなのに。
 大きな名声が欲しかったわけではない。名誉も、財も要らない。ただあの人と子どもと、慎ましい小さな幸せを築きたかっただけなのに。

 どうして──?

「っ!」
 木の根に足を取られ、女は地に伏せる。いつの間にか頬が濡れて、渇いた土に黒い染みがぽつぽつと落ちた。

 指先で、地面を削る。何かを強く掴むような仕草だったが、女が掴んだのは湿り気のある土だけで、手のひらでほろりと崩れ、零れていく。

 ──こうして手にしたものを、私は幾つ失っていくのだろう?

 その考えは、殊更女の心を締め付けた。手に入れたものを、いつか失ってしまうのなら、いっそのことこのまま諦められたら、どんなにか良いだろう。

 忘れてしまえば、楽になれると分かっていても、それが自分の望みでないことは明らかで。故に女はまた立ち上がる。絶望と切望が女を駆り立てる。

 土ばかりの獣道を抜け、舗装された堀を走る。
 ゆったりとした川の流れに月の光が反射する。淡い紅の花びらは、桜だろうか。
 光を受けてほの白く光る花びらと、白い月と、髪を振り乱して走る女と。

 端から見れば異様な光景だった。愛しい人と引き離された悲しみの余り、鬼へと変貌する鬼女のように。
 しかし、そんな己の姿には構っていられなかった。早く行かなければならない。間に合わないかもしれない。間に合った所であの人は私を置いていくのかもしれない。

 それでも、会いたい──





 外の陽気に比して、理哉の目覚めはお世辞にも気分の良いものとは言えなかった。
 東向きの窓から差し込む光が容赦なく理哉の顔を照らし、その眩しさに視界は真っ白になった。

 たった一つ部屋として機能している六畳間だが、物が溢れていて手狭になってしまっている。元々栄達一人が暮らしていたのでこれで事足りていたのだ。

 射るような光は目に染みるほどで、溜まらず理哉は寝返りをうった。
 ぼんやりとした視界に鮮やかな撫子色が飛び込んで来て、ずきずきと痛む頭を抱えて少し呻いた。

 唐突にやって来ては、預かれと一方的に告げて置いていった龍三の着物だが、『どうせじゃし、出しておけ』という旅先からの栄達の言を受けて、とりあえず衣桁にかけてある。処理に困った理哉は、取り敢えず栄達に連絡を取ったのだ。

 栄達が最後まで固持していた携帯だが、どうしてもと頭を下げられて遂に息子夫婦に持たされたのである。あいつらは人を老人扱いしよる、と憤慨していたが結構頻繁に利用しているようである。持ったからには使わないと勿体ない、というのが言い分だったが、理哉には子供じみた言い訳にしか聞こえなかった。

 広げられた着物は裾にかけて撫子色から月色へと移り、小柄な桜の模様は桜貝色。ともすれば白くも見える控えめなものながら、刷り込まれた金箔が華やかさを添えている。どちらかと言えば可愛らしいという形容が似合う品である。

 理哉は目利きではなかったし、興味のある方でもないが、なまじ見慣れているせいか、良い品物であることは何となく分かった。箪笥などに隠してしまうより使ってやった方が着物のためになるような気がするが──などと考えてから、じいちゃんが言いそうなことだ、と嘆息した。

 しかしどれだけ良い物かは知らないがこれのお陰で理哉の夢見は最悪だった。

 昔から夢はよく見る方だった。
 大抵映画のフィルムを見ているような、そんな客観的なもので、理哉自身とは全く関係ない夢が多かった。しかし、そういう夢に限って、実際に起こったことと酷似していたのだ。

 子供の頃は頻繁に両親に夢の話をしていたが、彼らの反応はどちらかと言えば戸惑いの色が強かった。一度や二度なら偶然かもしれないが、ことある毎に過去を言い当てる理哉に、はきとは口にされたことはないが、気味の悪いものを感じていたのだろう。

 理哉もそれを感じ取り、だんだんと夢のことに触れるのを避けるようになった。現実と酷似する夢など、誰にも言わない方が良いのだ、と心に決めたのはもう何年も前のこと。それ以降、中学、高校と進学するにつれ、夢自体も見ることが減っていった。

 子供は感受性が強いと言うし、一時的なものだったのだろうと自分自身で納得していたのだが、この翆華堂に来てから事情が変わってしまった──また夢を見るようになったのだ。しかも、以前よりも鮮明で、現実と区別するのが困難なほどリアルで生々しい夢だ。時にはその場所の匂い、人の息づかいまで感じるほどに。

 何が原因かは、考えるまでもない。翆華堂に集まる古物、その物自体が持つ記憶──というには違和感があるが、そうとしか言いようがない──、そしてその物に思い入れのある人間の思念だ。人の感情を、夢の中でとは言え、直裁的に感じることは、辛い。特に、今日のような夢は。

 この体質で被害を被る理哉は、自然と嫌な予感のする物と、しない物の見分ける勘のようなものを身につけていったのである。幸か不幸か、それがまた、栄達の利害と一致してしまったのだ。
 何やら疑わしげなものと、そうでないものを選り分ける眼をもち、身内で気兼ねしないし、何より金がかからない。

 もう一度深く溜息を吐いて、先程の夢の内容を反芻する。女が駆けていた堀の風景は、どこかで見たことがあるような気がした。ちらりと着物を一瞥すると、心なしか桜の花が色褪せて見えた。
 理哉はしばらく黙考してから、ひとまず腹ごしらえのために階下に降りた。











「突然お邪魔して申し訳ありません」
 と、頭を下げたのは高校生くらいの男の子で、電話口の丁寧な物腰から想像していたよりも若いことに驚いた。しかし鳴はそれを顔には出さず、やんわりと微笑んでその少年を迎える。

「いいえ。とんでもない。わざわざ来て貰ってありがとうね」
 鳴は孫のような年の少年を居間へと通す。

 是非に見て貰いたいものがあると言った少年は古物屋『翆華堂』の者で、片桐理哉という名を名乗った。少年の祖父が個人経営している店のようで、特に押し売りの気配もない。

 この年での一人暮らしは何かと物騒だと人は言うが、こちらを欺こうとする人間のあしらいにも、見分けることにも慣れている。丁寧だがどこかたどたどしく、物慣れてない風の少年の言葉は真摯で、嘘を言っているようには聞こえなかった。

「失礼だとは分かっているんですが、少しだけこの家のことをお聞きしました」
 理哉少年は年に見合わない礼儀正しさで、さぞかし厳しく育てられたのだろうと推察できた。この若さで畳の縁を踏まぬように足を運べる者は少ない。彼の両親だとまだ若いだろうから、店主だという祖父だろうか。どことなく微笑ましいようで、鳴はひっそりと笑った。

 笑われた理由に見当がつかなかったのか、少年は数度瞬いて小さく首を傾げた。鳴は失礼を詫びて、相対する少年に向かって小さく笑ってみせた。
「まぁ……お狐さんが憑く、言われたんとちゃいます?」
 そんな風にいわれるのはもう慣れている。かと言って良い気分のするものではないが、恐縮した風な姿を見ると、詰るのも悪い気がした。あまりに開けっぴろげに言われたからか、理哉少年は多少気まずそうだ。

「そうです」
「それと、お着物とどう関係ありますのん?」
 鳴が問うと、少年が持参してきた風呂敷を解き、中に畳紙が見えた。それを差し出しながら、
「こちらに、呉葉さんという方がいませんでしたか?」
 意外な名前が飛び出て、一瞬反応できなかった。数度瞬いて、頷く。

「呉葉は、うちの母の名前ですけど……」
「では、この着物に見覚えは?」
 畳紙の中身は撫子色の地に桜模様。彼女はっと目を見開き、躊躇いがちに手を伸ばしてそっと着物を撫でた。

「このお着物、見たことがあります。姉が着ていたものです」
 着物は呉葉のものだったが、彼女自身がこの着物を身につけたのは一度だけだと聞いていた。

 駆け落ち同然でついて行くと誓った相手に別の縁談が持ち上がり、その話自体がなくなってしまった。既にその男との間の子を宿してしていた呉葉は悲嘆に暮れ、仕立てたばかりのこの着物を纏い、心中を図ったそうだ。

 しかし、幸か不幸かその現場を発見され、呉葉は助かった。その子供というのが鳴の姉で、後に見合いで結婚した夫の間に授かったのが鳴である。

 その姉は呉葉に似ていたのかもしれない。この着物を纏い、誰とも知れぬ男と手を取り合い、身一つで出て行ったのだ。

 つい、懐かしさにかまかけ、しかも少年の相槌が上手いものだから、そんなことをとつとつと語ってしまった。少年は妙に納得した顔をしてから、実は、と切り出す。

「店に持ち込まれた品物です。狐憑きのお家のものだとお聞きして、少し気になったんです」
 確かに、目の前の少年やその両親の年代ではあまり気にするような事項ではないだろうが、彼女のような年代には時折、そのようなことを信じている人間がいる。
 そんな物に手を出すなんて、と懸念を抱く者もあろう。少年の口ぶりから察するに、祖父の店というのは、恐らくその祖父と同年代が相手の商売なのだろう。

「……あの、失礼ですけど、お姉さんは?」
「一度便りがありましたけど、それ以降は……」
「そうですか……」

「うちの先祖の誰それがお狐さんをお嫁にして、それから沢山の事業に成功したそうですけど、曾祖母の世代には既に家が傾くばかりで、そんな羽振りのええことなんか、全くありませんでした。それでも狐憑きいうて、お嫁には行かれへんかったんです。姉もまた駆け落ちみたいに家出て行って。元気でいてくれたらええと思うてたんですが、これが今うちの元に来てる、言うことはもう……」
 そこで言葉を切って、鳴は切なく笑った。

「ところで、お姉さんの父親の名前をご存知ですか?」
 少年の唐突な問いに鳴は一瞬、戸惑ったが、頷いた。

「確か……遠藤と言ったかしら。遠藤正三……とか、そう、そんな名前やったと思います」
 姉が出て行った時に、呉葉は一度だけそんな名前を漏らしたことがある。どういう流れでそんな話になったのかは忘れてしまったが、母親は未だにその人のことを忘れられないのだな、と悲しく思ったことがある。

 答えてから、鳴は再び着物に目をやった。
 若々しい撫子色。その袖を翻し、出て行った姉の姿が瞼の裏に蘇った。

 ──じゃあね。鳴、うちは行くから。

 まるでちょっと近くへ行ってきます、というくらいの軽さで告げ、まだ十四だった鳴の頭を撫でた。

 ああ、そう言えば、あの日は確か春の盛りだった。桜が雨の如く降っていた。輝くばかりに美しい姉の横顔、凛と見上げたその姿を、鳴は鮮明に覚えている。

 不意に、涙が零れた。もう姉の声を聞くことはないのだと思うと無性に悲しかった。











「……や、理哉、起き」

 肩を揺すられて目覚めてみると、見覚えのある祖母の姿があった。状況が掴めずに、理哉は思わずぽかんと祖母を見上げた。
 妙に明るいのに雨の音がして、夢かもしれないと理哉は思った。

「ばあちゃん?」
「ほら、早よう起きて。いつまでも寝てたらあかんよ」
「え……ごめん……」
 鈍色の着物をしゃんと着こなし、ぴしりとした調子で関西弁を話す祖母に、つい反射的に謝ってから、あれ? と首を傾げる。祖母の鈴は確か……

「懐かしいなぁ、このお着物」
 いきなり、娘のようにはしゃいだ声を上げた祖母は、理哉を振り返って快活に笑う。
 衣桁に掛けた撫子色の着物の裾を手にとって理哉に見せる。

「綺麗な色やろ? お気に入りやってん。でももう若ないし、理哉のお嫁さんになる人にあげてな」
「ばあちゃん、気が早いってば……」
「何言うてるの。ばあちゃんが嫁いだんはあんたぐらいの時やで。それはええけど、こんなお日さんのあたるとこに置いたらあかん。色褪せてまうやないの」
 言うなりてきぱきと着物を移動させようとする祖母を見ながら、違和感の正体に気付いた。

 祖母は、一年前に亡くなったのだ──

「ちゃんと手入れしといてぇな、って頼んだのにちぃとも聞いてはらへんのやね」
 愚痴をこぼしながら、祖母は六畳間の掃き出し窓を開け放ち、着物をばさりと広げたものだから理哉は慌てた。

「ちょ、それ! 預かってるだけ……」
「せやかて、もう花枯れる頃やし」
 理哉がみなまで言い終えぬ内に、祖母はけろりとした表情でそう言い、空を見上げる。

「ええ天気やね」
「ええ天気って……」
 理哉は空模様を眺めて、呆然と呟いた。確かに空は明るい。しかし、薄雲が空を覆っているが隠しきれずに、空が奇妙に白く光っている。その、やんわりとした陽光の中、銀の針のような小雨が降っているのだ。

「……どこが?」
「こんな日に散る桜は、綺麗や」
 答えになっているようなないような返答を聞くうちにも、祖母はばさりばさりと遠慮なく着物を広げている。止めようとした理哉は、目前に広がる光景にまたしても唖然とすることとなった。

 降りしきる小雨の中に舞い散る桜貝色の花びら。金の粒子がそれを華やかに彩って、きらきらと輝いた。花びらは名残惜しそうに理哉の頬を撫でて、消えた。慌てて足元に視線をやったが花びらは見あたらない。本物の桜ではないことは分かったが、一体どこから?

「来年も、綺麗に咲いたらええねぇ」
 空を見上げた祖母は何とも暢気な声で笑っている。呆れて溜息をついて、理哉も同じく空を見遣った。

 こんな天気を、なんていうんだっけ、と考えていたら、だんだんと瞼が重くなってきた。さぁっと、雨の音が耳元で聞こえてくる。

 その音を聞きながら、ああ、春が終わるなと思った。












「栄達は、まだ帰っとらんのか」
 翆華堂にやってくるなり、龍三はそう言った。いつもの如く店番をさせられている理哉は、暇つぶしに読んでいた本から顔を上げて龍三を見遣る。

「帰ってきてますよ。あと、あの着物、やっぱり買い取れません」
「何でじゃ?」
 そう問いかける龍三の顔は面白がる風だが、理哉にとってはちっとも面白くない。憮然とした表情で告げる。

「あれ、うちのものでしょう」
「何じゃ、もう分かったのか?」
「名前入ってましたし」
「それだけでは手掛かりが少なかろうに」
「……」
 夢に見た、という理由は自分でも説得力に欠けるような気がしたので黙ることにする。

 あの夢に出て来た場所に見覚えがあると思ったら、近所の川沿いだった。春には桜がこぼれんばかりに咲いて、この辺では有名な桜の名所だ。
 夢では石畳だったのが、コンクリートになっていて、土手もまた綺麗に整備されていたが、それを除けば夢とぴたりと一致していた。

 あとはその辺のお年寄りを捕まえては、生まれ育った街のことを調べているだのと適当なことを並べて、狐憑きのことを聞いた。
 中には翆華堂の常連客もいて、『おお、翆華堂の若か』などど言われたりした。一体いつの時代だよ、と心の内でぼやいたのはまた別の話である。

 そうやってお年寄り情報ネットワークで最終的に辿りついたのが安来鳴、という老女のところだった、というわけだ。

 その鳴婆さんに父親の名前を聞いたのは、ふとした思いつきでしかなかったが、遠藤正三という名を調べてみると、直ぐに分かった。何を隠そう、目の前に立つ遠藤龍三の父にして、遠藤グループの創始者だというから世間は狭い。

 どうして着物が自分の家のものだと分かったか、というと何のことはない。栄達が帰ってくるなり着物を見て、ばあさんの着物じゃないか、と口走ったからである。
 驚く理哉をよそに、これはどこにあったんじゃ、なんであるんじゃと問い詰められたが、余りのことに何も言い返せなかった。全く、世間は狭い。

 ちなみに、祖母を夢を見たあと、着物を確かめてみると桜模様が消えて無くなっていた。それがなくても十分に華やかな代物ではあるが、どことなく淋しい感がするのは否めない。

 着物の桜がなくなっていることも問い詰められたが、理哉には答えようもない。答えようもないので、妖怪にでもなったのではないか、所謂付喪神ってやつ、などと適当なことを返した。

 すると栄達は、ぱっと夢から覚めたように瞬き、それだったら来年も咲くかもしれんな、と本気なのか冗談なのか良く分からない口調で頷いていた。
 栄達との会話を思い出しながら、ふと理哉は思う。

 ──もしかすると、全て知っていて、龍三はこの着物を持ち込んだのではないだろうか。
 そう言うと、隆三はさぁどうだかの、と笑った。

「それより、茶を出さんか、儂は客じゃぞ」
 こんな態度のでかい客に振る舞う茶なんかない、とでも言ってやろうかと思ったが、やめておく。理哉がもう少しこの老人に太刀打ちできるようになるまではおあずけだ。

「龍三、来たか」
 話し声を聞きつけてか、二階から降りてきた栄達がそう声をかける。
「邪魔するぞ。おお、栄達、生きておったか」
「そう簡単にはくたばらんよ。龍三も、相変わらず意地悪そうじゃな」
「それが生き甲斐だからの」
 これが彼らなりの挨拶なのか、いきなり悪口の応酬である。

 理哉はそれを聞き流しながら、奥にしつらえてある台所に引っ込み、茶の用意を始めた。
 二人の話題はあっさり栄達の旅行の話に変わり、景色が良かっただの飯が旨かっただの、そういえばあそこが良かっただのと、過去の思い出話にまで花を咲かせているところに茶を差し入れる。お茶請けに土産のういろうを切って添えた。理哉も勝手に相伴に与ることにする。

 二人が茶に口をつけて落ち着くと、しばらくその余韻を楽しむかのような沈黙が落ちる。
「のう、栄達」
「何じゃ」
 不意に呼びかけられて首を傾げる栄達には目を向けず、

「お前の孫を婿にくれんか?」
 それを聞いて、茶を吹き出したのは理哉当人である。

「……何やっとるんじゃ」
「大事な話だと言うに」
 口々に責めてくるのを無視し、龍三に視線をやる。

「本気で言ってるんですかそれ」
「そうじゃ、そうじゃ。お前孫娘に虫がつくのは嫌だと抜かしておったろう」
 栄達の口調はどこか面白がっているふうで、本気とはとっていないようだ。こちらも『若者虐め』が生き甲斐なのだ。
 勝手に話の種にして楽しんでいる二人を軽く睨んだが気にする様子は全くない。

「だからこそ、ついてしまう前にそこの孫にやってしまいたい」
 さらりと言って、再び湯呑みに口をつける。からかい口調だった栄達も考える顔つきになった。
 なんだか妙な雲行きになってきたのを断ち切るように理哉が口をはさんだ。

「俺の了承もなく勝手に見合い話なんか持ち込まないで下さい」
「儂の孫娘にけちつける気か?」
「曲解は悪い癖ですよ」
「なんつう可愛げのなさじゃ。栄達の毒舌が遺伝しとる」
「そりゃわしのせいではないわい」
 放っておいたらいつまでも続きそうな不毛な会話に理哉が割り込んだ。

「とにかく! そういうことは考えてませんから。お断りします」
 言うだけ言って、反論は聞かないとばかりに理哉はその場から席を外した。強かな老人二人はその背を何となく見送って、同時に目を合わせた。

「……さっきの話は、本気か?」
 その問いに龍三は答えず、ただ人の悪い笑みを浮かべただけだ。
 こうなるとどうあっても口を割らないことを知っている栄達は内心、やれやれと呟く。全く、妙なもんにばかり、気に入られるもんだ。

「おおそうじゃ」
 栄達ははたと膝を打ち、にやりと笑った。
「お前さんに土産があるぞ。『黒霧島』がの」
 龍三もまた相好を崩して手を叩いた。

「そりゃあ良い。花を散る姿を見ながら呑むのもまた、粋なもんじゃ」
 階下から、年寄り二人の暢気な会話が聞こえてきて、理哉は何度吐いたか分からない溜息を零した。

 そして、昨日のような天気を、狐の嫁入りというのだ、ということをいきなり思い出した。





 ──その翌年、栄達が予言した通りあの撫子色の着物に桜が咲いた。
 栄達はこりゃ懐かしいわい、と手を打って、殊の他喜んだ。この年から着物の桜と本物の桜を相手に、酒を呑むのが栄達の密やかな楽しみとなった。

 そしてその美しい花に隠された、悲しみの色を溶かすように、毎年雨の降る日に桜は散った。





〈終〉










































【花隠】Date.2007.10

 三月末のある日、狐の嫁入りがありました。
 澄み切った青い空は春の色をしているのに、ぱらぱらと降る小雨。
 太陽の光が当たってきらきら光って綺麗でした。
 でもどこか淋しい感じがするのは何故だろう。

 ……って感じたことをそのまま話にしたのがこの『花隠』です。
 ミクシィで先に掲載していた作品で、9月に完結。若干修正をいれて掲載。
 久々に現代ファンタジー、書いたかも。って書く度言ってる気がするが……。

 『翆華堂』のイメージは既に何年か前からあって、いつか書こうと思ってた世界観のひとつ。翆華堂にモデルはありませんが、町の雰囲気は地元を多少参考にしてます。
 私の地元は所謂副都心で、意外と有名企業があったり、交通の便が良かったりします。
 ですがそれは駅周辺だけの話で、一歩筋を変えれば住宅街、所々に田んぼがあり、休日にはしんと静まりかえるようなそんな場所です。
 この町のどこかに、こんな店があったら面白いかも……なんて個人的な趣味と妄想で作りました。爺ちゃんと孫、もしくは婆ちゃんと孫の組み合わせがとても好きで、最近頓にその傾向が現れてるような(笑
 これは多分私がばあちゃん子だからかなぁなんて思ってます。

 この話は起伏もないし、特に特筆すべき特別なことなんてないです。
 当たり前だけどじいちゃんやばあちゃんにも若い頃があって、これまでの人生がある。
 それは孫の立場から見ればまるで別人のようでとても不思議。これもある意味ファンタジーかもしれないなって、そういう話です。

 ……抽象的すぎる(笑