謳ひ人の啼く丘で 第一部
5
エランもまた厩代わりとなっている一角から愛馬を連れてきて荷物を確認する。最低限の食糧と水、薬といったものが括り付けられている。馬の負担を減らすためにも荷は少ないが、実のところ沙漠というのは名ばかりで、殆ど草原と言っても差し支えない。
幾つか点在する至泉の場所を知っていれば、レラへ戻ることもリタ・シリへ向かうことも不可能ではない。至泉の場所は分かっていたし、生き残るための知識は叩き込まれている。余程のことがない限り沙漠で野垂れ死ぬことはないだろう。
徒党を組んだ商隊が動き始める。馬に乗って手綱を握りしめると、荷車の近くについた。
人が乗れるように改良してあり、それは主に女や怪我人のために用意してある。無論荷も一緒に積むので一番狙われやすい。
次々と果てのない大地へ踏み出していく光景を、妙に厳粛な気持ちで眺める。 エランは動き始めた荷車に合わせて馬の腹を蹴った。まだ草原だというのに、砂混じりの風を感じた。
傭兵の主な役割は、賊が出てきたら追い払うという非常に単純なもの。目に見える脅威がなければ、特に何をするわけでもない。とはいえ、いつ何時、何が起こるかもわからないので、周囲の警戒を怠るわけにはいかない。
とりあえず現時点では、異変はなさそうだった。特に引っかかることもないし、しばらく安全そうではある。
自然と押し殺していた息を吐き出した。滞っていた酸素のかわりに、乾いた空気が肺を満たす。
明けて間もない日の光が、舞い上がる金色の砂に弾き返って目の奥を刺激する。
今はまだきつくないが、遮るものが何もないこんな場所では気温が上がるのも早い。比較的行動しやすいのは早朝ぐらいなものだ。肌を剥き出しにしていれば容赦なく照りつける陽光で、火傷を負う。日除けをまとってはいるが、直射日光の我慢しきれない暑さを考えると辟易する。他の人間には良く涼しげな顔をしていると言われるが、表情に出ていないからといって、暑さを感じないわけではないのだ。
太陽の角度でどれだけ進んできたか、ある程度見当はつくものの、景色に変化を感じさせない一面に広がる大地が、距離を実際よりも長く感じさせる。加えて、この先にある沙漠地帯は、賊の危険が高い草原地帯とは違って、その砂自体が厄介な曲者となる。
沙漠に慣れた馬は希少だ。無茶な扱いで馬の体力を削ることも怪我を負わせることも避けたい。駱駝もいるが、駱駝の方は荷運びのために連れているので機動力には欠けるのだ。
このまま何も起こらなければいい。その方が安全なのは確実だし、後は暑さを我慢すればいいだけのことだ。人命が減ってしまうよりもその方がずっと良いに決まっている。大所帯ゆえに、自然と歩みが遅くなるのは仕方ないが、予定していた行程は順調に消化しているようだから問題はない。
ふと、前方にやたらと不安定に揺れている馬を見つけた。エランは騎乗者を見て、思わず深く溜息をついた。
見慣れた赤い頭が船を漕いでいたのだ。
「シェス」
馬を並べて、相手の手綱をぐいっと引っ張る。そんなことをすれば体勢を崩すのは当然のことで、うつらうつらとしていたシェスェルはぱっと目を覚ました。落ちまいとして、反射的に馬の首にしがみつく。
これが気性の荒い馬だったら暴走していただろう。もちろん、おとなしい馬だと承知の上である。
「な、なにするのさ!」
シェスェルにしてみれば突然降って沸いてきた天変地異のような出来事である。混乱する頭を必死になだめているようだ。下から睨み付けてくる緑色の目には涙が滲んでいた。
「何も馬の上で寝ること、ないだろうが」
器用なことだが、普通出来ることではない。呆れた口調で言われたシェスェルは反論してこなかった。こちらに正当性があるのを認めて、言い返せなくて頬を膨らませている。
「寝てないのか?」
と問うエランも実はあまり熟睡していないのだが、生業上たいした負荷になってはいない。
「んー、凡庸神【アタナン】見たの初めてだしさぁ、それに何より動かない的相手しか練習したことなかったから、実際戦闘ってものを体験してなんだかこう、気が高ぶっちゃってるわけさ」
うふふーと変な笑みをこぼしながら言うシェスェルの目は少し虚ろだ。
エランは確信する。
「寝てないんだな」
「うん」
こっくり頷いたシェスェルは力なく、そのままかくんと眠りに落ちてしまいそうだった。
「そんなに眠いなら、自分で馬操らなくてもいいだろうが」
荷車に一人分の席を空ける余裕くらいはあるだろう。元々シェスェルはエレクトラム商会の娘さんだ、と有名であったし、どこの荷車にいたって危害を加えられるようなこともない。体力に不安があるのならわざわざ無理して馬に乗る必要などない。
「じゃ相乗りさせて」
「嫌だ」
「けちー」
確かに相乗りするのも一つの方法だが、やるなら自分以外の誰かにしてくれと間髪入れずに断る。一瞬、唇を尖らせたが、唐突にぽんと手を叩く。
「あーそっか、なにかあったとき足手まといになっちゃうもんねぇ。だったらいいや、このままで」
ふむふむとシェスェルは一人で納得している。決して短い付き合いではないが、どうにも彼女独特の話の運び方には慣れない。
あるいは、誰にでも友好的になれない少年の方にも問題があるのかもしれなかったが。
「大丈夫なのか」
話している途中に寝る、という暴挙には出ないようだが、シェスェルはしきりにまばたきを繰り返している。
「話してたら頭冴えてきたかも。でもって、頭がしゃっきりしたところで、今度はこの暑さに耐え切れそうにないかも」
うう、と呻きながらシェスェルが返してきた返答に、そうだな、と適当な返事をした。
暑いというのは誰もが認識していることで、改めて言うことでもない。シェスェルもまた具体的な返答を期待していたわけではないらしい、首を傾げて問いを重ねた。
「まだ遠いのかなぁ?」
「まだまだだなぁ。こんだけ大所帯だったらなかなか先に進まねぇよ」
何も代わり映えのしない地平線を見ながらのシェスェルの問いに答えたのは、エランではなかった。答えようとして、科白をとられたのでかわりに答えた相手を見る。
「フェル?」
きょとんと首を傾げて名前を口にしたのはシェスェルだ。疑問形なのは、フェルがいつの間に近づいてきたのかわからなかったからだろう。
「何かあったのか?」
「いや、エラン君が楽しそうに子守してたのでおにーさんも混ぜてもらおうかと」
フェルの回答に、エランは一瞬言葉に詰まった。
「……楽しそうに見えたのか、今の」
「うん、とっても」
しれっと真顔で切り返してきたが、本気でそう思っているのかいないのか判別しがたい。どう反応したところで、相手を面白がらせるだけならば、無視するのが得策だ。エランは黙殺することにした。
「ちょっとぉ〜子守ってどーゆー意味さ?」
シェスェルがじとりと青年を見上げたが、当人は飄々としている。
「だってお前さん最年少だろう?」
子守というところに反応したシェスェルをなだめるようにフェルが言う。
全員の顔を覚えるのは困難なほどの大人数で、老若男女入り乱れているが、言われてみればシェスェルが一番年下だ。若いと言われている者でも、大体がフェルと同じ年齢くらいだろう。
とはいっても単にシェスェルが子供であるというだけで、十九歳のフェルも十分若者の内に入る。
「それはそうだけど、子守ってのにすごーく棘が含まれてる気がするんだけど……」
ぶつぶつと呟くシェスェルを横目に、エランが肩をすくめた。
「あれ? ねぇねぇエラン、あれ何かな?」
ひとしきり文句を呟いていたシェスェルが突然遠くを指差した。あまりに遠くてわかりづらかったが、金色の視界の中目を凝らしてみると、煙のようなものが立ち上っているのが見えた。
こんな場所で、煙が自然発生するわけなどない。明らかに不自然な光景に、エランは眉根を寄せて速度を上げる。
「あ、待ってよ!」
その少年の様子を見て、シェスェルが声をかけて追い始める。
「っと……いきなり大事っぽいなぁ」
フェルも成り行き任せに後についていこうとしたが、駆け出そうとする前に誰かに止められた。
「げ、爺さん」
フェルの行く手を遮る様に馬を寄せてきたのは、アルジェである。
すぐ近くにいるんだったら、自分を止めるよりまずエランの方を止めろよと、反射的に叫びそうになったのをぐっと堪える。
「赤光殿にまで離れられては、何かあった時に困るのだがのぅ」
穏やかさの中に感じられる飄々とした振る舞いは、一応いくつかの修羅場をくぐってきたフェルよりも段違いに狸だった。圧倒的に有利な年齢差があったとしても、勝てる気がしないのはその年齢差故の経験の違いだろう。技術の差もあるはずだ。学ぶべきところが多くある先達なのだが、どうにも反発心の方が先立ってしまう。
「爺さん一人で何とかなるだろ。てか、エランのやつはどうすんだよ!」
「斥候だと思えばええじゃろ。じゃが、戻ってきたら少しばかり灸を据えんといかんな」
何でもない口調なのだが、それだけに薄ら寒いものを感じた。これが年輪というものだろうかと考えながら、フェルはそう遠くない未来、二人に据えられるお灸を想像して思わず合掌した。